もはや死語? 高校野球の「エースで4番」が激減した理由
今後も「エースで4番」は増えない
「3つ目は野球留学の増加です。78年に1都道府県1代表制になって以降、私立の強豪校に県を跨いで渡る生徒が増えました。有力な選手が集まると、『エースで4番』の1人に頼る必要がなくなります」 その嚆矢は80年の江戸川学園取手だ。茨城大会のベンチ入りメンバー17人のうち16人を県外出身者で固めて甲子園に出場。翌81年春のセンバツでは、甲子園球場の近くにある上甲子園中学出身のエース・坂本昇を擁した鳥取の倉吉北がベスト4に進出した。この成功によって、野球留学は年々増えていった。 これらの要因によって、『4番・ピッチャー』は90年代になると珍しくなり、クリーンアップを任される割合も大幅に減った。93年からの10年間を見てみよう(80回記念大会の98年は出場55校、それ以外は49校)。 93年 4番:16.3% CU:36.7% 育英・井上靖士/9番 94年 4番:10.2% CU:32.7% 佐賀商・峯謙介/6番 95年 4番:2.0% CU:18.4% 帝京・白木隆之/9番 96年 4番:12.2% CU:24.5% 松山商・新田浩貴/8番 97年 4番:12.2% CU:18.4% 智弁和歌山・藤谷俊之/9番 98年 4番:5.5% CU:16.4% 横浜・松坂大輔/4番 99年 4番:2.0% CU:16.3% 桐生第一・正田樹/8番 00年 4番:12.2% CU:24.5% 智弁和歌山・中家聖人/9番 01年 4番:10.2% CU:24.5% 日大三・近藤一樹/9番 02年 4番:4.1% CU:14.3% 明徳義塾・田辺佑介/5番 95年は創価(西東京)、99年は甲府工(山梨)の1校しかいなかった。逆に言えば、この時代に『4番・ピッチャー』で春夏連覇を果たした松坂大輔は“怪物”の名にふさわしかった。以降10年ごとに見ても2012年は8.2%、2022年は10.2%と低水準が続いている。 「視点を変えると、昭和の頃は野球が一番の人気スポーツでした。だから、運動神経のいい子が集まっていた。平成になると、徐々にサッカーなどに流れて行った影響もあるでしょう。少子化とはいえ、硬式野球の部員数も最高時と比べ4分の3程度になっています。変化球は年々増えていますし、スピードも速くなっている。球数制限もあって分業制はさらに加速するでしょうし、生徒を集めるために野球留学もますます多くなるはず。ですから、今後も『エースで4番』は増えないと思います」