日本の古代社会の重要テーマを、最新の研究で浮かび上がらせる―西本 昌弘『日本古代の儀礼と社会』
大化前代の歴史や儀礼・祭祀論、古代仏教史、典籍の伝来など、日本古代史研究の重要なテーマについて、最新の研究成果をふまえた書き下ろし論文18本を収録。 ◆王権に関わる様々な儀礼や祭祀の実態や意味を解明―第一部「儀礼と王権」 本書には最新の研究動向を踏まえたさまざまな論考をお寄せいただいたが、期せずして大化前代史や儀礼・祭祀論、古代仏教史、典籍伝来論などに関わる好論が多く含まれることになった。以下、18本の論考について概要をお伝えする。 第一部には「儀礼と王権」と題して、王権に関わる儀礼や祭祀に関わる論考6本を収めた。 西本昌弘「不改常典と神祇令践祚条」は、不改常典とは践祚儀礼を定めた神祇令践祚条のことで、この規定が近江令から養老令まで受け継がれたため天智の定めた不改常典と称されたとし、この儀礼は高天原に発する神性を新帝に付与する重大な意味を有したと論じる。 山内晋次「日本近世の航海信仰からみた古代の持衰」は、近世の日本・琉球や十二世紀の中国・朝鮮における航海時の断髪祈願習俗の源流に、中国古代の魂と毛髪の関係をめぐる共通した観念が存在することを指摘し、魏志倭人伝が持衰は「不梳頭」(整髪しない)と記すのも同様の習俗に基づくものと説く。 市大樹「古代行幸の運用実態」は、『延喜式』の行幸規定と実際の行幸記事を対比検討して、行宮の整備をはじめとする運用の実態に迫り、聖武天皇の紀伊行幸・関東行幸・難波行幸などの意味を問い直す。また行幸時に海路や河川が利用された場合があることを指摘する。 姚晶晶「『唐暦』と「日本」国号への変更期間について」は、中唐の柳芳が建中三年(七八二)頃に完成させた『唐暦』は、倭国から日本への国号変更を最初に記した史書として、古代・中世の日本人に注目されたとする。 二星祐哉「荷前別貢幣と諸王発遣の意義」は、六国史所載の山陵臨時奉幣使の変遷を検討し、公卿を長官、四位・五位王を次官とする発遣方式は延暦四年(七八五)よりみえ、公卿発遣制は八世紀半ばには成立していたとする。また神嘗祭使の考察も踏まえて、諸王発遣制のもつ重要性を強調する。 笹田遥子「斎院の交替制」は、天皇即位時に留任する場合のあった斎院の性格を斎宮と比較して検討し、斎院には天皇と対面して祭祀権を分与される発遣儀式がなく、斎院は神前に奉納される存在であったため、代替わりごとに選び直される意味が薄かったとみる。 ◆文学・政治・芸能などあらゆる場面で仏教の関わりを考察―第二部「仏教と社会」 第二部には「仏教と社会」と題して、古代仏教と国家・社会との関わりを追究した論考6本を収録した。 田島公「『伊勢物語』第九段 東下り「都どり」の歌と「豊嶋ミヤケ」・「浅草寺縁起」―在原業平の「事問ひ」の和歌と「特牛」・「檜前」氏―」は、東京の言問通りと関わる『伊勢物語』の名歌「いざ言問はむ 都鳥」の由来を探り、古代の隅田川河口にムサシ国造が経営する牛牧から発展した豊嶋ミヤケがあり、強健な牛を意味する「特牛」(こっとひ、ことひ)という地名で呼ばれたとし、このミヤケ在住の檜前氏が信仰した観音菩薩像とその仏堂が浅草寺の起源であると説く。 若井敏明「行基にかんするいくつかの問題」は、養老期の行基は困窮した僧尼の活動を維持しようとして弾圧されたが、のちに和泉や昆陽野で公共事業を請け負う活動を展開して聖武天皇に認められたとし、行基の大僧正登用には玄昉が反発したと論じる。 家村光博「行基と池溝開発」は、行基が大鳥郡周辺で池溝開発に取り組んだのは斜陽化した陶邑窯跡群の丘陵地を耕作地にするためとし、狭山池の堤で行基が修造した第一一層も本来は第一〇層と同規模の高さがあったろうとする。 鈴木拓也「長岡遷都・廃都と早良親王」は、『類聚三代格』から廃太子直後の早良親王を救うために祈禱が行われていたことを示す延暦四年十月五日官符を見出し、早良と南都寺院は連携して長岡遷都に反対していたとする。また、長岡京を最終的に終わらせたのはやはり早良の怨霊問題であったと説く。 櫻木潤「和気氏と最澄・空海」は、天台・真言両宗の開創に尽力した和気氏の動向を清麻呂と広世らの二代にわたって追跡する。延暦末年に桓武天皇の意を受けて広世は最澄を支援し、弘仁以降は真綱・仲世が空海を支援するようになるのは、和気氏が仏教の新潮流を敏感に感じ取ったからであるとする。 山口哲史「平安時代中後期における四天王寺俗別当の補任と芸能」は、四天王寺俗別当は伽藍の修造や惣用帳の覆勘を職掌とし、十一世紀後半以降は院の近臣たる大納言と弁官が補任されたこと、藤原兼通・師長ら芸能に通じた者が俗別当に任じたことを契機に、四天王寺楽所・舞楽が発展したことなどを論じる。 ◆摂関制を含めた広義の政務や、典籍・文物に関わる論考―第三部「政務と文物」 第三部には「政務と文物」と題して、摂関制を含めた広義の政務と典籍・文物に関わる論考6本を収めた。 鴨野有佳梨「太政大臣の権能からみた摂政・関白の成立」は、近江令制下の大友皇子の任太政大臣、浄御原令制下の高市皇子の任太政大臣、『令集解』における太政大臣の解釈などを吟味して、太政大臣にはのちの関白的な権能があり、文徳天皇も藤原良房に「摂任する」ことを期待して太政大臣に任命したとする。 鈴木景二「大極殿炎上と清和天皇の退位」は、応天門の変後、若き清和天皇は疑義を退けて伴善男を厳しく処断したが、貞観十八年(六七五)に大極殿が炎上するとこれを伴善男の祟りによるものと認識し、その退位を早めたとみる。 藤井貴之「季禄の変遷と財源」は、季禄は貞観年間以降、年料別納租穀による支給となるが、やがて支給・不支給を繰り返すようになり、特定官人への給禄である位禄定がはじまると、全官人への給禄である季禄は衰退していったとする。 高田義人「平安時代における天文勘申と中原氏」は、外記の最上首たる局務に任じた中原氏は、中国典籍に通じていたため天文学習宣旨・天文密奏宣旨を蒙ることができ、世襲的に天文密奏者を輩出したが、平治の乱に関わった師業が大外記を罷免され、局務が庶流の師元に移ると、中原嫡流家は衰退し、やがて所蔵の文書類は後白河院や九条兼実に譲渡されたと説く。 小倉慈司「近世における『政事要略』の伝来―前田綱紀蒐集本を中心に―」は、金沢文庫本『政事要略』一九巻の行方を追跡したもので、一八巻は江戸時代に木下順庵を介して一条家に、巻六九残簡は前田家に売却されたが、一条家の古本は延宝三年(一六七五)に焼失したこと、前田家尊経閣文庫に現存する金沢文庫本の巻二五・六〇は延宝九年頃に前田家に入ったことなどを明らかにする。 並河暢子「安閑天皇陵とガラス碗―東北大学附属図書館所蔵 速水宗達『御玉まりの説』より―」は、安閑天皇陵出土と伝わるガラス碗の形状と発見経緯を寛政五年(一七九三)に記した新史料を紹介し、高屋城落城後に一帯を支配した田中氏の家僕が田畑を作る際に玉碗を掘り出し、百余年後に西琳寺に寄贈したことを再確認する。 以上、18本の論考の概要を紹介した。ぜひとも手に取って最新の研究を味読いただきたい。 [書き手] 西本 昌弘(にしもと まさひろ) 関西大学文学部教授。日本古代史。 [主な著作] 『日本古代の儀礼と社会』(八木書店、2024年) 『日本古代の王宮と儀礼』(塙書房、2008年) 『飛鳥・藤原と古代王権』(同成社、2014年) 『空海と弘仁皇帝の時代』(塙書房、2020年) 『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年) 『新撰年中行事』(編著、八木書店、2010年)他多数。 [書籍情報]『日本古代の儀礼と社会』 著者:西本 昌弘 / 出版社:八木書店 / 発売日:2024年10月17日 / ISBN:4840626049
八木書店出版部