紗倉まなが「圧倒的な影響」を受けた…「意外な女性」の存在
目指す「美しさ」のゴールは…
私の周りにいる女の子たちは常に顔が変わる。同じ角度で切り取られた、肌の色が白く瞳が大きくなった写真を見ていると、彼女たちではない別の誰かとして目が認識することがある。そして記号化されつつある美しさを得るために努力する彼女たちは、その美しさを盲信する人たちによる心無い言葉によって精神をすり減らし、抗えない年齢に対しての打開策を打ち出すように美容施術を試し、年齢とともにかけられる言葉の変化に戸惑う。その葛藤を繰り返していくうちに、彼女たちが目指す先にあるのは、一体何なのか、不思議に感じることがある。自分が思う美しさに到達することへの執着なのか、誰かから評価される美しさの型にはまることへの喜びなのか、そのどちらもあるのか、どちらでもない何かなのか。 ばあちゃんを見ていると、「美しくあり続けたい」「女性として魅力的でありたい」という気持ちの中に、自分を信じたいという強い意志があるように思う。美を得ることはとても苦しいはずなのに、どこか楽しそうでもある。いつまでも達成することができない美は、ばあちゃんをひたすら悩ませることによって、彼女の人生を潤し続けているようにも思えるのだ。そして孫である私はというと、今、ほうれい線の除去に悩んでいる。顔に無駄に走る線を取るべきか、そのまま放っておくべきか、指先でなぞる薄い溝に微かな不満を抱いている。鏡に向き合うたびに映っている自分の視線の先に、ばあちゃんがいるようだなと、内心、少しだけ、嫌に思いながら。 蛇足だけど現在のばあちゃんはというと、どうやら私のことが好きみたいだ。ばあちゃんは私の小説をよく読む。というか、絶対に読む。やけに速読。そして、大量の絵文字を使い、変換を間違え、ちぐはぐな内容のメッセージを送ってくる。文芸誌に小説を寄稿すれば、近所の人に数冊買ってきてもらって大事に保管している。いつの間にかご近所に私の名前は知れ渡り、ネットニュースで私のことが取り上げられると、ご近所の数人がばあちゃんにご丁寧に伝えにいく。だからネットに疎いばあちゃんでも、SNSで発信されている私の近況はざっとわかるようだ。いくら架空の話とはいえ、ばあちゃんを「理想のばあちゃん」として登場させているところもあり、感想を聞くのがちょっと怖い。もちろん全てが事実ではないけれど、私がばあちゃんのことを書いて、ばあちゃんが反応しないわけがないのだ。ばあちゃんはいつから私を女ではなく、孫として見るようになったのか、それとも今でも女として見ているのか。話すことを楽しみにしている自分がいる。
紗倉 まな(AV女優、作家)