宗山塁(明大)父が語る原風景【中編】「すべてのカテゴリーで私の想像をはるかに超えて、成長していました」
打撃ケージの横には馬洗川が流れており、夏場はチーム練習が終わって帰宅すると、ユニフォームを脱ぎ、スライディングパンツのまま川に飛び込んで泳いでいましたね。昭和の男、アイシングですよ(苦笑)。近所で泳いでいる人? 塁以外、見たことがありません。我流でしたが結構、泳ぎも上手だったと思います。野球選手は柔軟性、呼吸器系を高めることを目的に、水泳教室へ通うケースをよく聞いていたので、塁にも一度、勧めたことがあるんですが、「俺は入らん」と。野球以外のことには一切、興味を示しませんでした。野球への探求心は、ものすごかったですね。 私が帰宅し、練習を始める際には、1球目から全力で振れるように、万全の準備を命じていました。一人でボールを打つときには、ティー台を使うんですが、置いてあるボールをミートするのはなかなか難しい。一般的な子どもですと、ボールの上部や、黒いバーの部分をたたくものですが、塁は最初から、当たらなかったのを見たことがありません。すべてのボールをしっかり、ミートしていました。最近のティー台は性能が良く、ゴム状で元に戻ってきますが、当時の製品は固め。すぐに折れ曲がり、塁自身が補修をしていました。
バットの芯に当てるのを目的に木製バットを使用していたのは、あくまでも建前で(苦笑)、金銭的に安価だったですからね……。毎日、相当な数を打っていましたから、木製バットも消耗します。軟式ボールも割れていました。塁はいつも一定のポイントで打っており、バットの同じ芯の部分に跡が残っていました。そこで、握る部分を変えて「回して使え!!」と。ただ、一周してしまった時点で、そのバットの寿命がきます。小、中学の9年間で3本、使い込みましたね。 打撃ケージの横では、ひたすらゴロ捕りです。守りも基礎基本を繰り返していました。本格的な打撃練習やノックをする際は、みらさか学園(みらさか小学校、三良坂中学校)のグラウンドで行っていました。広陵高3年時はコロナ禍で寮が閉鎖となり、自宅に戻ってきたんですが、不要不急の外出を控えなければいけない時期。ところが、みらさか学園の校長先生が「将来がある選手。好きに使ってください」とご配慮をいただき、ブランクなく、継続して練習を積むことができました。周囲のサポートには感謝の言葉しかありません。