F1ブラジルGPで28年ぶりに蘇ったアイルトン・セナと本田宗一郎の“伝説の約束”
今から28年前の3月24日、世界中が一人の男の走りに涙した。F1ブラジルGP決勝。31歳の誕生日を3日前に迎えたばかりのアイルトン・セナが母国グランプリ初勝利をかけて71周で行われるレースに臨んだ。 当時セナはすでに2度チャンピオンに輝き、その年もタイトルを獲得するほどの強さを誇っていた。しかし、なぜかブラジルGPでは不運に見舞われ、地元で表彰台の頂点に立つことはできていなかった。 そんな中でスタートした91年のブラジルGP。ポールポジションからトップを順調に走行していたセナに、またも不運が訪れる。4速が壊れ、続いて3速も失ってしまったセナのギアボックスは5速もトラブルに見舞われ、事実上6速だけしか使用できない状況となった。舞台であるインテルラゴス・サーキットは起伏が激しいコースとして知られている。シフトダウンできないセナは、ブレーキングで通常よりも大きなGフォースを受けていた。シートベルトによって締め付けられたセナの体は、71周目には限界に達していた。2位に2.991秒差でトップでチェッカーフラッグを受けたセナには、ウイニングランを走りきるだけの体力は残っていなかった。 マシンを止め、コックピット内で子供のように泣きじゃくるセナの無線に、世界中のモータースポーツ・ファンが涙した。 そのセナの渾身の走りに最後まで根を上げずに、12気筒のシリンダーを回し続けたのが、セナが崇拝していたホンダ・エンジンだった。 前年の90年に選手権を制したセナはFIA(国際自動車連盟)主催の年間表彰式で2度目のタイトルを授与されると、式に参列していた本田宗一郎の元を訪れ、宗一郎から「これからもナンバーワンのエンジンを作るよ」と約束されると、「ドウモアリガトウ」と涙を流して、感謝した。 セナが初めて母国グランプリを制した91年の夏、宗一郎は永眠。セナと宗一郎の会話は、これが最後となった。翌年の 92年限りで、ホンダはF1活動を休止。その2年後の94年5月1日、セナはイタリア・イモラで開催されたサンマリノGPで事故死。その後、ホンダはF1に復帰するが、なかなか勝利することができず、91年のセナによる優勝がホンダにとってブラジルGPでの最後の勝利となっていた。 そのブラジルGPは今年、いつもと違う雰囲気に包まれていた。セナが命を落としたあの日から25年目という中で、ブラジルGPが開催されたからだ。