ラグビー・フィーバーから学ぶべきもの――闘う男たちと日本文化
一時のお客さんから多様な日本文化へ
しかし彼らはあくまで一時的な客人である。 一時的なお客さんとして歓迎されることと、ほぼ永久的に日本社会に受け入れられることには大きな溝がある。日本社会は「ひとつの家」であり、正式な礼をもって訪れた家の客は丁寧にもてなすが、礼を失した人間には厳しく、ましてや日本社会の家の一員となって永住するには大きな壁がある。日本文化には体内に入る異物に対する強い免疫作用があるのだ。 長期的にはグローバル化に向かう世界で、人口減少からくる国力の衰退を食い止め、それなりの生活水準を保つためには、よりオープンな「開かれた社会」に向かう必要があるだろう。日本文化にも普遍性と多様性が求められる。しかしアメリカのような「主張の多様性」ではなく、日本的な「和の多様性」を考えてもいいだろう。そのためには偏見を捨てて世界の動態を見る必要がある。今までのように欧米先進国を追うだけではなく、東洋にも南半球にも眼を向けるべきである。今の日本では、実力が如実に現れるスポーツがその先陣を切って進んでいるように見えるのだ。
社会のために闘って散ったラガーたち
実は僕は高校1年のときラグビー部に所属していた。部室には大きく「裸愚美」と書かれていた。裸で、愚かで、美しい男たちの青春の巣窟だった。 しかし母が不治の病にたおれ一年で辞めてしまった。心に大きな空白が生じた。一体感が強いスポーツであるだけに喪失感も強いのだ。 僕より少し長くやって辞めた友人がいた。受験勉強のために親に説得されたという。「大学に入ったら必ずまたやるんだ」と、かつての仲間たちの練習を見ながら彼は寂しそうに呟いた。ラグビーを辞めた人間に共通する独特のトラウマがあるのだ。のちに彼は事業に失敗し周囲に迷惑をかけたことを悔いて自ら命を絶ってしまった。身体は小さいが、俊敏な動きのスクラムハーフだった。ゲームだけでなく、社会のために命懸けで闘って散ったラガーは少なくない。 それにしても東京オリンピック2020は、新国立競技場とエンブレムのコンペやり直し、マラソンと競歩の札幌開催と、トラブル続きである。地方の人々の素朴なおもてなしの大成功と、桁違いの予算を使う国家的プロジェクトのトラブルは、今の日本を象徴しているようではないか。