ラグビー・フィーバーから学ぶべきもの――闘う男たちと日本文化
日本人とは何かという問いかけ
このスポーツは、体力的な意味で日本人には限界があると思われていたが、現在は完全にトップクラスだ。そこに「日本チームの選手が日本人じゃないじゃないか」という批判もあった。 だがこれは「日本人とは何か」を考えさせるよい機会である。 島国であることにより、国家と民族と文化に比較的一体感があることは否定できないが、民族的純粋性を主張するのは、世界の実態にも、グローバルな時代にも合わないだろう。大陸の歴史において、国家と民族は同調しながらも別の枠組みであった。日本でも国家という意識が誕生したのは近代のことであり、それは常に民族以上の枠組みに拡大しようとする動力をもっていた。また実際に民族性を確認するためには厳密な親子関係を遡る必要があり、完璧を期すにはDNA検査が必要だが、それは現実的でない。見た目に頼るのも非科学的だ。 とはいえ国籍だけが問題というのも形式的に過ぎる。文化論者として僕は、日本文化を理解し愛し日本人たらんとしている者が日本人である、と考えてきた。野球の王貞治選手は、中華民国の国籍のままだが、本人も「日本人だ」といい、誰もが日本人だとみなして誇りにしている。いずれにせよ今日のスポーツの分野では、大坂なおみ、サニブラウン・ハキーム、ケンブリッジ飛鳥、八村塁など、多様なバックグラウンドをもつ選手が、日本人として活躍し日本人として応援されている。われわれは日本丸という同じ文化の船に乗っているのだ。
大英帝国(海の帝国)のスピリットと日本
それにしてもラグビーは大英帝国のスポーツだと感じる。 イングランドやウェールズというのは国家ではなく、イギリスという国の一地方である。ベスト8に残ったのは、日本とフランス以外、すべてかつての大英帝国圏、現在の英連邦の代表である。ニュージーランドや南アフリカなど、なぜか南半球の植民地だった国が強い。またフランスは昔からイギリスの文化的ライバルで、海峡を挟んだ隣国であり、王室も民族も文化も縁が深い。唯一日本だけが遠い国であるが、日英同盟が思い浮かぶ。 その意味で「海の帝国」のスポーツであるともいえる。ラグビー・チームの団結は、同じ船に乗ったクルーの団結に近いのかもしれない。海軍には、撃沈させた敵船の乗員を救助する習慣もあり、いわばノーサイドの精神だ。 視点を変えれば、日本経済が成長を続けているときに凋落気味だったイギリスが「英国病」といわれたように、今の日本は「日本病」に罹っているように感じる。現在は、ブレグジットに揺れるイギリスも、外から学ぼうとしない日本も、島国特有の「内向きの風」が吹いているのかもしれないが、それでもこのラグビー・フィーバーは、海の帝国のスピリット(精神)を再び鼓舞しているように感じる。そろそろ病の床から立ち上がり、気合を入れて荒海に向かおうじゃないか、と。