RIZINでの役目は終わった──高田延彦61歳が明かす激動の人生 #昭和98年
UFC誕生に危機感「職業を否定されてしまう」
運命を変えたヒクソンとの戦い――。高田の足跡を振り返っていくと「400戦無敗の男」にたどり着くのはむしろ必然であったように映る。 UFC第1回大会がアメリカで開催されたのは、今から30年前の1993年11月にさかのぼる。当時の高田といえば、マット界に新たな潮流を生んだUWFの流れをくむUWFインターナショナルを1991年に設立して社長に就任。元横綱・北尾光司さんらとの戦いを通じて人気を高めていた一方、経営は思った以上に苦しかったと明かす。 「われわれにはビッグスポンサーやテレビの放映権収入があったわけでもない。純粋に入場券収入をあてにしてやっていかなければならなかった。バクチ的な大きな興行を仕掛けていきましたけど、それはもう難しかったですね」
そんな矢先にUFCと出会った。エンターテインメントの要素は一切なしで殴る、蹴る、締める、極(き)める。柔術のホイス・グレイシーが優勝した何でもアリのリアルファイトに対しては当初、嫌悪に近い感情と同時に強い危機感がこみ上げた。 「当時はルールも含めて洗練されていなかったし、見ていて何ら美しさがない。でもこれがもし広がっていくというなら自分たちの職業を否定されてしまうな、とも。プロレスは立ち位置的にこのままでいいんだろうかって俺自身満足していなかったから、敏感に反応できたのかもしれません。これは脅威だなって。深い霧の中に入っていく気分でしたね」 圧倒的な強さを示すホイスが「自分より10倍強いのが兄ヒクソン」だと言い切ったとき、己の心にスイッチが入った。交わらなくてもいい別物として片づけてしまえば、プロレスラー最強を謳っていた看板に偽りありとなってしまう。ヒクソンへの挑戦をマット上でブチ上げた反響は凄まじかった。霧が晴れるきっかけがそこにあると信じた。 しかしながら――。
引退宣言、参議院選挙出馬…心が折れた30代
ヒクソン側との交渉役を担った後輩レスラーの安生洋二が進展しない状況を打開するためにロサンゼルスにあるグレイシーの道場に乗り込んだものの、返り討ちにされるという事態が起こる。それは対戦交渉の打ち切りとともにプロレスに対する評価そのものを急落させてしまうことにもなった。 晴れるどころか霧はますます深まった。 経営は厳しく、待遇の改善を求めてくる若手レスラーもいる。心が折れた。1995年6月には周囲に打ち明けることなくリング上で引退宣言までしている。妻に猛反対されて断るつもりだった参議院選挙も、結局はさわやか新党の目玉候補として出馬に踏み切る。思ってもみない方向にどんどんと進んでいく。 「選挙のために引退って、本当はそうじゃないのにメディアに書かれてしまって。落ち着いて考えれば、そう受け止められるって分かるのに、それだけ自分の中がしっちゃかめっちゃかってこと。正常な判断能力を失っていた」 選挙には落選。引退もできず、新日本プロレスとの対抗戦に踏み切った。対抗戦を終えるとファンは離れ、万策尽きた。1996年12月、UWFインターナショナルを解散した。 ほとほと自分が嫌になった。 「中学生のころ、(アントニオ)猪木さんに憧れて、学校も行かずにトレーニングして、あの人がいる場所(新日本プロレス)に向かって脇目も振らずに走っていった。何のために、俺はこの世界に入ったんだ、と。夢に胸を膨らませて14歳で職業の選択をしたあのときの自分に少しでも近づきたいっていう気持ちになりました」