「産んだ人にしかわからない喜びがある」?妊活手前の不安と本音
コミカルな語り口と鋭い着眼点で、30歳前後女性の「あるある!」を発信し、SNSで大人気のコラムニスト・ジェラシーくるみさんの連載<ジェラシーくるみの「わたしをひらく」>。今回のテーマは、「自分が子どもを持つことがあるのだろうか?」という思い。揺れ続けるくるみさんの今の正直な思いを、綴っていただきました。 【ジェラシーくるみの「わたしをひらく」】共感必須の連載をまとめてチェック(画像)
「楽しいよ、こいつが毎日ちっちゃなハプニング起こすからね」 父になった友人は、4カ月の赤ちゃんを膝の上で抱っこしながら器用にパンにバターをつけて口に運んだ。 「ぶっちゃけ親業どうよ」の質問に対しての回答。 楽しい、という意外にもシンプルな第一声は私の心の中のオセロを一枚ひっくり返した。 ここ数年、私の脳内では子どもを持つ・持たないのオセロが繰り広げられている。 もちろん妊娠を望んだとて、実際に妊娠・出産できるのかはまだわからないが、妊活を始めるさらにその一歩手前の段階で、私はずっと足踏みをしているのだ。 ものを知れば知るほど、「子どもがほしいかも」「産むのも育てるのも怖すぎる」の波は絶えず押し寄せ、引いてはまた寄せる。 「子どもがほしい」モードのときは、友人のストーリーにあがる赤子の写真が眩しく見えて、妊活する時期や必要なお金を計算し始め、不安になったり安心したりする。 産まぬ我が子の皮算用。 「妊娠も出産も育児も全てが恐ろしい」モードのときは、Twitter(X)トレンドに定期的に上がる育児の愚痴や夫・姑・社会への呪詛を読みながら、ぶるぶる震える杞憂の夜を数日過ごす羽目になる。 その時々の気分によってオセロが一枚ひっくり返ると、その列の全ての石が真っ白もしくは真っ黒になり、将来への不安や自分への問いかけがエンドレスに湧き上がって、その色に脳内が占拠される。 先日行われた子持ち夫婦二組とのランチ会は賑やかで、小さい子と接するのが得意ではない私の目にも、友人の血を継いだ子どもたちは可愛く映った。 4カ月になる男の子は表情豊かで、次々に運ばれてくるお皿を見ては目をまん丸にする。 おもちゃのガラガラを鳴らすと、一本の歯も生えていない口を半月型にして笑った。 1歳になる男の子は、スマホに流した子犬のリール動画に夢中になった。 「ワンワンだよ」とお母さんが教えると、むっちりした指で画面を指差す。 両頬と右目の下にふんわりエクボを覗かせてにこにこ笑うその姿に、ハートをぐっと掴まれた。 また一枚、オセロがひっくり返った。 「産んだ人にしかわからない喜びがあるのよ」 出産について聞いたとき、いつも私と熱い喧嘩や冷戦をしてばかりの母から言われたことがある。 中学生の頃だったか。 その言葉は大きな杭となり今も私の胸の端っこに突き刺さったままだ。 それから私は「手放しに愛することのできる存在」を作ってみたいと思ったのか、あやふやな人生計画ゲームの中に「子を産む」のイベントマスが常に鎮座していた。 “子どもがほしい”側の人間だった私だが、社会に出て色々な現実を知るうちに「子を産む」のマスはいつの間にかカパッと外れてしまい、行き場を無くした。 誰もが自分の子を手放しに愛せるわけではないこと、愛という綺麗事では片付けられないほどに育児は過酷だということ、特に子どもが小さいうちは日常生活にあらゆる制限がかかること、親となる人間は子どもにまつわる全てのリスクと責任を引き受けなければいけないこと。 よくなるとは思えないこの日本に、この世界に、命を産み落としてしまっていいものか、子どもは健康に生まれてくるのか、私は子どもを幸せにできるのか、私とパートナーは幸せでいられるのか。 そして想像の外側にある、あらゆるリスク、事故、暴力、経済、災害、政情、気候変動……。 その一方で、「産まない」選択肢の先の空白にも思いを寄せざるを得ない。 子を産んで育てることでしか味わえない感情とは? 産まない選択をすることで、何か人生で大きなものを取り逃がす羽目になるのでは? いや、果たしてそんなものはあるのだろうか。 誰も答を持たない問いが、無限の球となって心の内壁に衝突しては跳ね返り、脳内で100人が一斉にスカッシュをしているかのようにバシバシ、キュッキュッと音が鳴る。 莫大な不安や疑問があるからこそ、我が子の存在が“日々を頑張るモチベーション”になるという意見もあるだろう。でも私は、日々を頑張って過ごしたいわけではない。 これは社会に出てみて初めてわかった自分の特性だが、私はできるだけ低燃費で、誰にもペースを乱されず、好奇心の向くままに自由に生きていきたい人間らしい。 ふと周りを見渡すと「いつ産むか」について悩んだ女性たちは多く、私にたくさんのヒントを伝授してくれるものの「産むか産まないか」から出発している女性はあまり見かけない。 また、新刊「私たちのままならない幸せ」の執筆にあたり、母になった女性、母にならなかった女性に取材を重ねたが、前者の中で出産を後悔している人は一人もいなかった。 妊娠期間や産褥期の辛さ、育児中のあらゆる種類のストレスや苦難、それらを乗り越えた方法に関しては多く語られたものの、子どもの存在自体についてはおおむね肯定的に語られていた。 一人の人格と身体を育てる過程には仕事とは違う達成感がある、成人した子どもは今や“相棒”のような存在である、子ども好きではなかったが我が子はどうしようもなく愛おしい……。 二人目を産む決意をした私と同い年の女性は、その経緯について「“本能”って一言で片付けたら取材にならないですよね」と笑って30秒ほど沈黙した後に言葉を続けた。 「長女みたいな大切な存在がまた増えるなら、また“会いたい”って思ったんです」 その言葉は熱を持ってじんじんと私の全身に沁みわたった。 後頭部や首や背中に、直に塗り込まれたかのように。 “本能”を分解すると“会いたい”になるのか。 会いたいという気持ちは一体心のどこからわき起こってくるものだろうか――。 私の中に“会いたい”スイッチはないのかと自分の心をまさぐってみたり、見たこともない子どもの顔を想像してみたりもしたが、オセロの勝敗に決着はつかなかった。 「産む」の先にある「育てる」についても不安は尽きないが、まだ育児には希望がある。 育児の負担や責任には、親になった二人で立ち向かえるからだ。 だが、子をお腹に宿し、変わりゆく身体を抱えながら出産という闘いに臨むのは私だ。 地震がくるたびに、妊娠期や産褥期に大地震が来たらどうしよう、と想像してしまうこともある。 人一倍強い妄想力のせいで、その最悪な事態に陥った夢を見たこともある。 産む・産まない、どちらの航路の先を見ても雲は薄暗く、わからないことばかりである。 ただ、わからないだらけの船旅の中で一つだけたしかなことがある。 私の身体のタイムリミットだ。 毎月股から血は流れ、一生のうち有限の生理チケットを一枚失う。 腹痛と気だるさの向こう側で、お前は産む性なのだ!と子宮が声高に叫ぶのが聞こえる。 ああ、私が生まれる前から、私のお腹の中には卵のもとが大量にあって、700万個のそれは私が胎齢6カ月の時点から減り続けていて……そう考えるだけで、ウッと腰を折り曲げたくなる。 妊娠可能な時期も、健康な子どもを産める確率も、毎秒減り続けているというどうしようもない恐ろしさ。 どれだけ頭で考えてみても、結局は生物学的な摂理という暴力的なものに呑み込まれて、うっかり全てのオセロがひっくり返りそうになる。 オセロの白黒は、今ちょうど半々くらいだ。 妊活しようと腹を決めたとしても、そのタイミングで子を授かれるのか、無事に産めるのか、不妊治療に進んだ後に自分が耐えられるのか。 確かなものは何もない。 確からしい情報を一つでもつかもうと思い、私は都のプレコンセプションケアのゼミに申し込んだ。 AMH検査、経膣超音波検査、精液一般検査。 私たち夫婦の妊孕力についての材料が出揃えば、いつかオセロの一戦目に決着がつくかもしれない。 命の誕生だけは「なかったこと」にできないから、まだ取り返しのつきそうな今、できることを全てやるのみである。 コラムニスト ジェラシーくるみ 会社員として働く傍ら、X(旧Twitter)やnote、Webメディアを中心にコラムを執筆中。著書に、『恋愛の方程式って東大入試よりムズい』(主婦の友社)、『そろそろいい歳というけれど』(主婦の友社)、『私たちのままならない幸せ』(主婦の友社)がある。 文/ジェラシーくるみ イラスト/せかち 画像デザイン/坪本瑞希 企画・編集/木村美紀(yoi)