【アイスホッケー】「お互いを尊重し合う。それを大切に42歳までやってきました」小原大輔さん・引退インタビュー
小学4年でサッカーに区切りをつけて アイスホッケーの「実業団」を目指す。
――小原選手、いや、もう「小原さん」ですね、駒澤高校(駒大苫小牧高)で27年前、将来有望な選手を集めて「ジェネレーションX」(日本アイスホッケー新聞)という連載をしたんですが、それに登場してくれた時が「出会い」だったと思います。今日は引退記念インタビューということで、よろしくお願いします。 小原 もう、そんなに長くなるんですねえ。今日はよろしくお願いします。 ――まずは釧路でアイスホッケーを初めたころの話から始めましょうか。 小原 最初は美原小学校に入ったんですが、美原小がマンモス校だったこともあって、芦野小に転校したんです。その芦野小で2年からアイスホッケーを始めました。最初はサッカーと野球に興味があったんですが、まさにアイスホッケーに「ハマった」感じでしたね。小学4年でサッカー部とアイスホッケー部のどちらかに決めなければいけないときがあったんですが、ウチの父親がサッカーをやっていたこともあって、サッカーでプロを目指すのか、アイスホッケーの「実業団」を目指すのかとなったら、現実的にはアイスホッケーのほうがいいんじゃないかと。そこでアイスホッケー一本に決めたんですよ。 ――中学は伝統校の景雲中へ。ただ、芦野小からは学区が違っていますよね。 小原 住所を親戚の家にして、越境して入学したんです。家から1時間かかりましたが、それを毎日、歩いて通ったんですよ。きっかけは、景雲中に内山朋彦さん(駒大苫小牧高-コクド-SEIBU-アイスバックス)がいたから。内山さんが新川小のころから、全道大会のテレビの中のスーパースターだったんです。高校で駒澤に行ったのも、やっぱり内山さんが行ったから。やはりテレビで高校の全道大会を見て、中学2年で「自分も駒澤に行きたい」と心に決めたんです。 ――内山さんが3年で、小原さんが1年生。内山さんが2歳上ですが、内山さんはお父さんが校長先生だったこともあって、偉ぶったところのない好青年でしたね。内山さんが足を生かしたゴールゲッターなのに対し、小原さんはセンターとしてフィニッシャーにパスを出す、サッカーでいうところの「ファンタジスタ」でした。 小原 小さいころから、シュートよりもラストパスをする方が好きだったんです。冬のセントマ(釧苫=2月に行われていた釧路・苫小牧対抗戦。苫小牧の選手はトマセンと呼ぶ)に選ばれた時でも、割とギリギリまでパスを出さずにキーパーを揺さぶって、観客をあっといわせるのが得意だったんです。 ――当時、釧路の飲み屋で、お客さんの1人が「小原は高校は駒澤に行くらしい」と言っていたのを聞いたことがあるんです。たまたまかもしれませんが、「釧路ってアイスホッケーの中学生の進路が飲みの話題になるんだ」と関心したことがあるんですよ。もともと「運上一美伝説」とか「小友坊伝説」とか、釧路の怪物の逸話にホッケーファンが沸いた時代が、間違いなくあったんですよね。 小原 本当に釧路はアイスホッケーに熱い街でしたね。それに、毎年のようにスターとなる選手が出ている時代でした。 ――駒澤に入ると、小原さんは高校1年から主力として活躍しました。 小原 苫小牧から来た人には、負けられないぞという意地がありました。たまたま僕の同期が、釧路の中学から来た小川健太(西武鉄道)、松田圭介(元アイスバックス、SEIBU)、桶谷賢吾(現駒大苫小牧高監督)がいたんですが、「みんなで駒澤へ行こう」と話し合って決めたわけじゃなくて、それぞれ自分の意志で進学を決めたんですよ。だから各々で「俺は釧路から出てきたんだぞ」という覚悟があったように思います。 ――小原さんが高校2年の時に「駒澤の1日」と題して取材をしたことがありました。朝のホームルームで小原さんと挨拶をした覚えがあるんですが、取材したのが「スペシャル」の日。月曜は陸トレを全メニューこなす日で、しかもその日は氷上まであったんですよね。私も鈴木司先生(当時監督。現在は総監督)に乗せられて演習林とか山王神社を走ったのですが、当時の駒澤は間違いなく、全国で一番の練習量だったと思います。 小原 もともと景雲中は、陸トレからいうと「中学版の駒澤」と呼べるくらい厳しいものがあったんです。それでも、駒澤の練習は想像を超えるくらいのキツさがありましたよ。 ――高校2年の時にアジア・オセアニアジュニア(霧降)があって、日本は優勝。会場で選手が日本代表の応援団の人と大騒ぎしているのを見て、「長野五輪以降のアイスホッケーは小原さんたちが中心になっていくんだ」という時代の流れを感じました。 小原 ファンの人が、代表の試合もたくさん応援に来てくれる時代でしたね。当時は日本でいろいろ大会が行われていて、海外のチームと頻繁に試合をしていましたから。 ――小原さんの故郷・釧路では小中学生がベンチにあふれるくらいの選手を抱えていて、高校は工業(釧路工)、江南、短付(釧路短大付。のちの釧路緑ケ岡、現在は武修館)が、それぞれ50人から60人の部員を抱えていました。ほかにも釧路北、釧路北陽、釧路東、釧路西、釧路高専でアイスホッケー部があった、活気のある時代でした。 小原 おかげさまで僕はインターハイで3連覇しているんですが、3年生だった年が思い出に残っていますよね。3月の引退試合で駒澤の同期が集まってくれたのですが、「やっぱり高校最後のインターハイが、一番印象に残る試合だったよ」と言っていました。