【アイスホッケー】「お互いを尊重し合う。それを大切に42歳までやってきました」小原大輔さん・引退インタビュー
忘れられない満員の中でのプレー。 釧路が一番熱い時期に優勝できた。
――コクドは狙っていた選手が高校から大学に進学すると、リクルーティングをいったん白紙に戻すチームでした。小原さんは早稲田に進んで、卒業後はやっぱりコクドを選んだわけですが、コクドの廃部後は、故郷の日本製紙クレインズに活躍の場を移しました。 小原 大学時代、クレインズからも勧誘があって、伊藤雅俊さん(FW)が外国人、日系人と活躍しているのを見ていたんです。「もしかしたらコクドよりもクレインズのほうがチャンスが多いのかな」と悩んだ時期もあったんです。SEIBUが廃部になって、あのタイミングで再びクレインズが僕にオファーをくれたんですよ。それと、やっぱり西脇の存在です。西脇と仲がいいのは皆さんも知っているので、他のチームは「小原はどうせクレインズに移籍するんでしょ?」と敬遠していたようです(笑)。 ――日本製紙クレインズでの思い出は。 小原 地元のファンの前で優勝できたというのは本当に貴重な経験でした。生まれた街、アイスホッケーに出会えた故郷で、一番熱い時期に立ち会えることができた。あの2013-2014シーズンは特別な年でしたよ。確かあの時のプレーオフで、釧路の観客数の新記録をつくったんですよね。 ――この年のプレーオフ最終戦の観客数は釧路アイスアリーナのレコードでもあって、「3120」の数字は記念としてリンクに飾ってありましたよね。階段も通路も人がいっぱいで、どこが導線かもわからないくらいで。 小原 クレインズがそれまでに3度優勝しているんですが、2013-2014シーズンが釧路で初めての優勝だったんですよ。 ――クレインズはアジアリーグ初年度の2003-2004が霧降、そして2006-2007、2008-2009が東伏見での優勝でしたからね。今から思えば最初で最後の釧路での優勝が、2013-2014シーズンだったんですよね。小原さんが移籍初年度の2009-2010シーズンも印象深いです。第5戦でハルラがサヨナラで勝って初優勝したのですが、延長戦で小原さんが膝を痛めて、あまりの激痛で泣いていたんですよ。いつも落ち着いている小原さんからすると、本当に珍しい光景だったと思います。 小原 あのプレーオフは、第4戦で西脇が終了2秒前に同点ゴールを決めて、延長はダーシ・ミタニ(FW)のサヨナラゴールで勝ったんです。第5戦で2日連続の延長に入ったのですが、延長で僕は相手のスケートの刃が刺さって、そのままボードに突っ込んだんですよ。それでも試合が止まっていないから、試合に出ざるを得なかった。結局、膝のお皿が割れてしまって、その年は代表も辞退しなきゃいけなくなったんです。 ――2014-2015シーズンからは、王子イーグルスでプレーします。 小原 2014-2015シーズンは王子の方針で日本人のみで戦う年だったんです。まさか王子がオファーをくれるとは思っていなくて、交渉解禁の日に連絡があったんですよ。その時はクレインズに残る選択肢もあったし、DEL(ドイツのトップリーグ)に行くという話もあった。ドイツの受け入れチームが、僕を第1セットで使ってくれるのか、それとも3つ目、4つ目で使うのか、悩んだ末に行くのをやめたんです。僕が若かったなら迷わず行っていたと思いますが、もう(当時は)32歳。若いころの発想は、残念ながらなかったかもしれませんね。 ――小原さんのキャリアでは王子の6年が最長の在籍期間でした。駒澤での3年間以来となった、苫小牧での思い出は。 小原 移籍初年度の2014-2015シーズンに久慈修平と高橋聖二がウイングで1年間、試合に出たんです。それで61ポイント(18ゴール、41アシスト)とキャリアハイの記録をつくった。これは自分の自信になりました。外国人の手を借りないでつくった記録ですからね。