【アイスホッケー】「お互いを尊重し合う。それを大切に42歳までやってきました」小原大輔さん・引退インタビュー
あたためてきた、海外でプレーする夢。 タイミングが合わないことが多かった。
――その後、早稲田大学に進みます。当初の予定である内山さんと同じ「駒澤からコクドへ」…という進路をシフトチェンジしました。 小原 高校からカナダのチームに行って1、2年プレーする条件で、コクドに入ることが決まっていたんです。当時は三浦浩幸さん(DF)がNHLにドラフトされたニュースもあって、海外へ行くために少しでも可能性の高いところへ…というのが僕の胸の中にあったんですよ。ところが高校3年の時に「来年からカナダのジュニアチームで外国人枠がなくなるらしい」という情報が入ってきた。このタイミングで厚い選手層のコクドに入ったところで、試合に出られないんじゃないかという可能性があったんです。「大学へ進んだほうが日本代表に選ばれるチャンスがある」と考えて、早稲田進学を選んだんですよ。勉強もできないほうではなかったので。 ――早稲田の4年生でECHL(イーストコースト・ホッケーリーグ)に旅立ったわけですが、大学時代の思い出は。 小原 早稲田はホッケーに打ち込める時間をつくれた、そういう時代でした。トップリーグに行くための準備期間。そんな時間だったと思います。4年生は大学リーグこそ出場しませんでしたが、そんなに単位も残っていなくて、卒業はもう確定していました。 ――早稲田で1学年下の西脇雅仁さん(FW、元クレインズ)とのコンビプレーが忘れられません。2人がパス交換をしてОゾーンに入ると、見方も敵も、周りの選手がついていけないんです。リンクには12人の選手がいるのに、小原さん、西脇さんの2人がより輝いて見えた。大学リーグには、ほかにもいい選手はいっぱいいたはずなんですが。 小原 西脇も高校まではセンターだったんですが、監督の中野浩一さんに「センターばかりこだわっていると試合に出られないよ」と言われたんです。そのときに僕が「だったら西脇をウイングとして僕につけさせてください」と言ったんですよね。実際、西脇はウイングをやるようになって、株がドーンと上がりましたよ。 ――大学を卒業してコクドに入社しましたが、小原さんはずっと海外でプレーしたいという希望を持っていました。 小原 そうですね。ただ僕の若いころは「社員選手」という立場だったんです。SEIBUの2008-2009年に僕は「契約選手」になって、ドイツのトップリーグにトライアウトを受けたのですが、その時もタイミングが合わなくて契約できなかった。ほかの年でも、そういうアクシデントやケガがあったんです。海外でプレーできるのであれば、本当に給料なんてどうでもよかったというか…。これがもし今の時代だったら、自分の意志がもっと尊重されて、また少し違っていたんでしょうけどね。 ――アイスホッケーの中心だったコクドが、西武鉄道と一緒になってSEIBUプリンスラビッツになり、ついには2008-2009シーズン限りで廃部になりました。ウサギのマークが少年の憧れだった「国土計画」がこういう結末を迎えるとは、夢にも思わなかったというのが正直なところです。 小原 噂では聞いていましたが、まさか…と思いました。「さすがに(廃部は)ないんじゃないか」と選手も気にはしていたんです。あの日は確か試合後に(2008年12月17日、ハルラ戦)選手が集められて、会社から廃部の話を聞いたんですよ。 ――宮内史隆さん(DF)、駒澤と早稲田で小原さんの先輩だった神野徹さん(FW)さんも、4月の世界選手権で日本代表に選ばれてそのまま引退だったんですよね。折しも2008年は日本の経済が不景気になって、アイスホッケーを選ぶのか、はたまた仕事を選ぶのか、悩んだ選手も多かったと思います。 小原 合宿所に集まって、SEIBU組が話をしたんです。キャプテンの鈴木貴人さん(のちにアイスバックス)が「モチベーションが下がったまま日本代表に行くことは絶対にできない。今まで通りと変わらず、日本のアイスホッケーのためにやろうぜ」って。あの光景は何年たっても忘れられないですね。