マイティ井上さん「全日本移籍」の背景 門馬忠雄氏が振り返る〝国際のエース〟の苦悩
国際プロレス、全日本プロレスなどで活躍した名レスラーのマイティ井上さん(本名・井上末雄)が、11月27日に心室細動のため75歳で死去した。華やかに昭和のプロレスを彩った〝和製マットの魔術師〟を、本紙OBで親交があったプロレス評論家の門馬忠雄氏(86)が振り返った。 【写真】1970年、国際プロレスでアンドレと戦ったマイティ井上さん ――マイティさんが亡くなった 門馬氏(以下門馬)全日本プロレスのジャイアント馬場、新日本プロレスのアントニオ猪木、両巨頭に挟まれ、〝双頭の時代〟に、よく頑張ったなと。「小さな実力者」という感じだった。175センチ、105キロで、周りはでかいのばかりの大型の時代に、存在感を見せたのは立派だった。 ――国際プロレス担当として、デビュー戦(1967年7月21日)の前からの付き合い 門馬 負けず嫌いで、努力家で頑張り屋だった。泣き言一つ言わなかった。小さい体でよく頑張ったと思う。ブリッジの練習では頭のてっぺんをすりむいて、血を流しながらやっていた。運動神経がよかったね。ボディビルもやっていたから、同期に比べても素質、運動神経では最高だった。だから、21歳で欧州遠征に行けたんだ。 ――〝大巨人〟アンドレ・ザ・ジャイアントと関係が深かった 門馬 欧州遠征でやたら仲良くなり、アンドレと一番仲が良かったと思う。アンドレは井上を「ミッキー(井上さんの欧州でのリングネーム)」と呼んでいた。アンドレが初来日した際に、井上から「ミッキーの友達の記者だと言えば絶対、取材断らないから」と言われたんでその通りに言ったら、実際、アンドレは初来日から一度も取材を断らなかった。すごく感謝している。 ――レスラーとしての評価は 門馬 リング上では、国際プロレスの中では寺西(勇)と並ぶ技巧派。テクニシャンナンバーワンだったね。ドロップキック、フライングヘッドシザーズから、得意技のサマーソルトドロップまで、何でもできた。それでも体が小さいから、やたらと無理して食べて、大きく見せようと努力していたよ。 ――国際プロレスではエースに 門馬 日本に帰ってきて3度目の挑戦で、ビリー・グラハムからIWA世界ヘビー級王座を取ることができた。ただこの時は、エースのストロング小林が国際から新日本に引き抜かれた後。彼自身が(エースに)「何で俺が」と戸惑っていたよ。「両肩にかかる責任が重かった」と言ってたみたい。とにかく国際プロレスを潰したくないという一念だったね。 ――多くのタッグタイトルを獲得 門馬 タッグマッチの名人でもあったね。アニマル浜口とのタッグで、新日本に乗り込んで、ヤマハブラザーズ(山本小鉄、星野勘太郎)に取られたIWA世界タッグ王座を奪い返した試合(79年2月、新日本・千葉)が一番良かった。すごい試合だったよ。2人ともスピードがあり、井上が浜口のパワーを引き出しうまく使っていた。試合運び、インサイドワークは抜群で感心したよ。それにやたらと星野のことを気にしていた。体つきも小柄で似ていて、2人とも気が強い。彼のファイトぶりを買って「星野さんを追いこそう」という意識だったのでは。 ――入場テーマ曲の発案者 門馬 国際を潰さないように、頭脳も使っていたよ。日本のプロレスで初めて入場テーマ曲がかかったのは、ビリー・グラハムの「ジーザス・クライスト・スーパースター」だけど、これを担当プロデューサーに進言したのが井上だよ。欧州ではテーマ曲を使っていたからね。国際だったから注目されなかったけど…。だから、国際を出ていった小林に対しては思うところあったようだよ。最後まで言ってたな、「気が小さかったのに(新日本に)行く度胸あったんだな」とね。 ――国際崩壊後は全日本へ移籍 門馬 新日本の空気感が嫌だったみたい。「猪木が嫌い」というわけでもなく、他の連中からああだこうだと吹き込まれて。国際側も選手にお金を払えないから、どうこう言えない。馬場さんに若い4選手を「頼みます」とねじ込んだんだ。全日本ではアジアタッグ、ジュニアの王者になったし、実績はつくった。それでも中心選手にはなれなかったんで、レフェリーに転向した。引退式も自分で馬場さんに開催をお願いしたみたいよ。当時には珍しく行動派で、自己主張した人でもあった。 ――プライベートでも親交はあった 門馬 親密に付き合ってよくお酒で赤坂、麻布に連れて行ってもらったよ。家族で付き合いがあり、宮崎・都城に移り住んでも「体、大丈夫?」と電話をくれたね。「受け身を取り過ぎて、体ガタガタ」と言ってたけど…俺より先にいって寂しいね。 (インタビュー・初山潤一)
初山潤一