五代友厚とはどんな人物なのか?慶応元年を象徴する事件「薩摩スチューデント」の構想と、薩英戦争との関わり
■ 五代友厚と薩英戦争 話を幕末期に戻そう。五代は藩に重用され、文久2年(1862)に舟奉行副役に就任し、幕府艦千歳丸で上海に渡航して、汽船・武器を購入した。この時、長州藩の高杉晋作と同室になり、行動をともにしたことは周知のことであろう。 また、文久3年(1863)には、生麦事件によって発生した薩英戦争において、いてもたってもいられず、急遽長崎から鹿児島に戻り天佑丸船長として参戦したのだ。しかし、寺島宗則とともにイギリス海軍の捕虜となった。 五代は潔く釈明を控えているが、おそらく、かけがえのない藩船の拿捕の責任を取ったことが考えられる。さらに、これ以降、イギリスがどのように薩摩藩に対して出てくるのか、そうした情報の収集もかねて居残ったものと考えたい。 五代らは横浜で解放されたが、簡単に捕虜になったことから、藩からイギリスとの密通の嫌疑を受けた。また、幕吏にも追われることとなり、江戸や武州熊谷での亡命生活を余儀なくされた。その後、寺島と別れて長崎に潜入し、ここで既知であったグラバーと再会した。彼らは、それまでに肝胆相照らす仲となっていたようだ。 次回は、五代が盟友グラバーの力も借りて書き上げた、薩摩スチューデントの派遣を含む上申書の内容について、詳しくご紹介したい。
町田 明広