戦争で犠牲になった犬たちと愛犬家の苦しみ 戦時下に犬を守ろうとした人々が戦後に直面した新たな危機とは?
かつて日本では戦時中に多くの犬を軍犬として送り出していた。同時に、民間人に対しては「人間が食べていくのさえ困難であるのに犬などを飼うなど非常識だ」と、処分や供出を迫ったりしたのである。今回は過酷な戦時下において、犬を守ろうと必死に戦った人々が戦後をどのように生きたか、その一端をご紹介する。 ■戦争に利用された犬たち 昭和6年(1931年)の満州事変から14年、昭和12年(1937年)の日中全面戦争から8年間続いた戦争は、日本の犬界に深刻な打撃を与えた。軍用犬として優遇され、供出による処分を免れたシェパードも例外ではなかった。 特に、太平洋戦争開戦後に軍犬として出征していったシェパードは、ほとんど生還できなかった。それでも国内にシェパードが残っていったため、日本シェパード協会はいち早く再建に向かって歩み始める。 日本シェパード犬協会の中心になっていたのは、昭和3年(1928年)に設立された日本シェパード倶楽部の理事たちのうち、帝国軍用犬協会が合併を迫った時に拒否した数人だった。盲導犬育成のためドイツから高価なシェパードを輸入したのも、この理事たちである。 そのうち中島基熊は技術者で、日本シェパード倶楽部設立の呼びかけ人である。相馬安雄は新宿中村屋二代目社長、中島栄は電通の前身である日本電報通信社の幹部だった。有坂光威(元騎兵大尉)及び関谷昌四郎(元陸軍獣医少佐)は、日本シェパード倶楽部と共にシェパードの育成に励んだ人物だった。 彼らは、日本におけるシェパード界の土台を作った功労者である。敗戦後は昭和23年(1948年)に日本シェパード犬登録協会に改組し、血統や登録の管理を行なった。 一方、組織を乗っ取られた恨みはなかなか消えず、帝国軍用犬協会の流れを汲む日本警察犬協会との協力は拒否し続けた。日本警備犬協会の仲介で和解したのは、昭和32年(1957年)のことである。 日本シェパード倶楽部設立の呼びかけ人だった中島基熊は、戦争中、軍用犬の大東亜共栄圏構想を提唱していた。大東亜共栄圏とは欧米列強に対抗する、日本を中心にしたアジア経済圏のことである。太平洋戦争開戦後、正当化のために後から出てきた思想である。 だが、これに本気で夢を賭けた日本人は少なくなかった。中島もその一人だったかもしれない。おそらく「ドイツに依存せず、アジア全体でいいシェパードを育成しよう」という発想だったのではないか。敗戦後は一変して、犬界の戦犯者を追求しようと事務局に迫ったこともある。中島の中で、この二つの発想は矛盾していなかった。 中島は、日本シェパード倶楽部の設立から帝国軍用犬協会との合併拒否、戦後の再建など、常にシェパード界の中心にいた。ところが意外なことに、昭和26年(1951年)に日本シェパード犬登録協会を離れている。 「犬界回想録2 戦後のS犬界を守った中島基熊氏」(藤島彦夫『愛犬の友』昭和58年/1983年6月号)によるとその遠因は、新しく審査員を養成しようということになり、中島がドイツ人訓練士カール・ミュラーを担当したことだという。 日本人ではないという理由で反対が多く、最後の最後に許可されなかったのだ。カール・ミュラーは、シェパードの大愛好家として知られた田村駒次郎が日中戦争前にドイツからシェパードを輸入した時、一緒に招いた訓練士である。ベルリンシェパード協会公認の訓練士であった上、戦争中も日本に暮らしていた。 この出来事に加えて、昭和26年(1951年)頃にはドッグレースのつまずきで専務が引退に追い込まれるなど、最悪の雰囲気の中で総会が開催される。そのあと中島は協会を離れた。 以後は日本シェパード犬登録協会と、対外的に日本を代表する犬種管理団体であるジャパンケネルクラブの双方と等距離で付き合いながら、シェパード犬界の長老として生きた。 日本犬保存会の中城龍雄は、主だった理事たちが地方に疎開した戦争中、杉並の自宅で一人、日本犬保存会の看板を掲げて犬籍簿を守っていた。人間の戸籍にあたる犬籍簿は、最も重要な書類であり財産なのだ。 中城は2階で複数の柴犬を飼っていた。そんなある日、どうやってそれを知ったのか憲兵が3人やってきたのである。「この非常時に犬など飼って!」と問い詰める憲兵たちに、中城は必死に反論した。「日本犬は大事な国犬だから守らなければいけない」と。最終的には何とか説得に成功したが、生きた心地がしなかっただろう。 敗戦後、日本犬保存会の中心になった中城は、個性が強くて好みがはっきりした人物だった。日本犬の戦後復興を牽引した秋田犬の飼育者が多かった中、洋犬の風貌が強い金剛号の系統を強く支持し、全犬種一席に押し上げた。そのため中型小型関係者から不満が出て、困惑した秋田犬関係者の足が遠のいたのである。 また戦後四国犬の二大潮流のうち、一方だけに肩入れして他方を嫌った。そのために四国犬界が分裂する結果も招いた。そういう問題が積み重なり、中城に対する不満が爆発する。中城は昭和36年(1961年)、支持者と共に日本犬保存会から離れ、柴犬保存会を立ち上げた。 日本犬保存会の重鎮として、秋田犬の保存活動に努めた湯沢市の地主・京野兵右衛門は、戦争中、丹精込めて育てた犬たちが処分されるという現実に直面した。京野から犬をもらった飼い主たちが、供出を求められて困り果て、犬を返しにきたのである。 とはいえ、どうすることもできない。処分するしかなかった。それを目の当たりにした京野は、「もう犬のことは考えたくない」と犬界から離れ、敗戦後はダリアの栽培と品種改良に取り組んだ。生来の研究熱心で新種も生み出している。しかし、旧知の石原勝助が首都圏を地盤とする秋田犬協会を立ち上げると、支援を惜しまなかった。 血統の管理や犬種保存の観点から、本来は一犬種一団体が理想である。しかし、これがなかなか難しい。人間が集まる限り問題は起こる。犬に関しても、考え方の違いで亀裂が生まれてしまうのだ。盲導犬界を代表する二団体もそうだし、北海道犬の保存団体も二つに別れた。美濃柴犬や甲斐犬の保存団体も二つある。 昭和の戦争という未曾有の惨禍を犬と共に生き抜いた功労者たちは、日本経済が復興し成長に向かう中で晩年を迎え、次々と鬼籍に入っていった。今や昭和は遠い過去のことになっている。 犬の保存や育成の活動は苦労が多く、損か得かと言われると損な役割だった。彼らの多くは裕福だったが、それを犬のために惜しみなく注ぎ込んだ。その社会貢献的な価値観を育んだのは大正デモクラシーだった。富裕層の一つの生き方として、彼らの人生は大きな示唆を与えてくれるのではないだろうか
川西玲子