〈失格画家〉ヒトラーが催した「大ドイツ美術展」と「退廃美術展」、輝く美の都ミュンヘンが褐色に染まった日
〈ミュンヘンは輝いていた。華やかな広場と白い列柱の神殿建築、古代様式を模した記念碑とバロック様式の教会、王宮の噴き上げる噴水と宮殿と庭園、これらの上に青絹の晴れやかな空が懸っていた〉(トーマス・マン『神の剣』高辻知義訳) 【写真】ヒトラーが画家志望のウィーン時代の描いて絵葉書にして売ったという作品 バイエルン王国の首都にして緑滴る芸術の都のミュンヘンを、作家のトーマス・マンがこのように称えたのは1902年のことである。30年ののち、ナチスに追われてこの明媚な古都からスイスに亡命することになる運命を、この作家はまだ知る由もない。 〈5000人の画家の街で、私はひとり孤独に暮らしている〉 この街の美術学校に学んでいた26歳のパウル・クレーは、1906年12月の日記にこう記した。ここでリリー・シュトンプと結婚して「色彩の魔術師」と呼ばれる画家への道を歩みはじめたクレーは、やがてその作品とともに「褐色に染まった街」から追われる。 歌人の斎藤茂吉が森鴎外こと森林太郎の留学の足跡を追って、この街を訪れた1924年の冬にはすでにヒトラーによるミュンヘン一揆が起きている。茂吉はバヴァリアの女神像が見守る街に漂いはじめた、不穏な空気を歌に詠んでいる。 〈行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか〉 画家を志してこの街の美術学校に通い、ウィーンの美術アカデミーを二度受験しながら「知力貧弱」「デッサン不可」で失敗した名もない青年、アドルフ・ヒトラーはその後、志願兵として従軍した西部戦線で鉄十字勲章を受けたことから軍の情報部員に転じ、やがてナチスの政治活動に加わった。バイエルン政府打倒へ〈一揆〉を企ててミュンヘンの街角で行った演説がその日、切れ切れに茂吉の耳に届いていたのかもしれない。 ナチスによる国会放火事件や血なまぐさい内部粛清を経てドイツ総統の地位にまで上り詰めたヒトラーは、東方への対外侵攻を拡大する一方でユダヤ人の強制収容と集団殺戮という未曾有の蛮行とともに、アウトバーン(高速道路)の建設や輸出の拡大などを通してドイツ社会の〈ナチス化〉を徹底的にすすめようとした。 そのなかでも強い執着を持ち続けたのが、「血と土」というナチスが拠り所とした世界観を視覚化して「ドイツ人の美術」を国民のまなざしに示すことであった。 〈私は生来の芸術家だ。ポーランド問題が片づいたら、戦争屋としてではなく、芸術家として生涯を終えたいと思う〉 第二次世界大戦が勃発する直前、ベルリン駐在英国大使のヘンダーソンに対して語ったと伝えられるヒトラーのこの言葉には、19歳でウィーンの美術アカデミーを受験して失敗した画家志望の青年が終生抱き続けた、たぎるような怨恨が渦巻いているようである。