〈失格画家〉ヒトラーが催した「大ドイツ美術展」と「退廃美術展」、輝く美の都ミュンヘンが褐色に染まった日
「退廃美術」の選別をめぐる暗闘
「退廃美術展」を企画したのは、ヒトラーの下で宣伝相を務めたヨーゼフ・ゲッペルズである。ナチス政権4周年を記念した「大ドイツ芸術展」を開くにあたって、「退廃美術展」をそこにぶつける案を出してヒトラーに認められた。 そのために急遽、わずか1カ月の間にドイツ各地の美術館からあわせて2万点近くにのぼる作品を「退廃美術」として摘発した。多くはポスト印象派から表現主義、フォーヴィズムなど、モダニズムの絵画や美術品である。 もともとゲッペルズはモダニズム絵画や表現主義に対して一定の理解の持主だったが、ナチスの理論家のアルフレート・ローゼンベルクの強い反対にあって急遽撤回し、これを「退廃美術」として批判にさらすことをヒトラーに提案して実現したのである。 「ドイツ民族よ、来たれ、みずから判断せよ」 ツィ―グラーのこの〝号令〟のもとで始まった「退廃美術展」は、1日の入場者が4万人を超えるなど、予想を大きく上回って4カ月で200万人の入場者を迎えた。その動員数は「大ドイツ美術展」をはるかに上回る。展示物への落書きのような中傷文を作品に添えたり、わざわざ額縁をゆがめて壁にかけたりして国民を挑発するような展示が、空前の観客動員につながり、「退廃美術展」はミュンヘンばかりでなく、戦時下のドイツ各地を巡回する人気イベントとなった。 ベルリン、ライプツィヒ、デュッセルドルフ、ザルツブルク、ウィーン‥‥。 「退廃美術」と名指しされて各地で没収された美術作品は1万7000点に及んだ。宣伝省は押収した作品を展示した後、制定された「退廃芸術の産物の没収に関する法律」に従って、外貨を稼ぐために内外の画商などに売却している。ここにはピカソの『アブサンを飲む女』や『二人のアルルカン』をはじめ、ローランサンやモディリアーニ、ゴーギャン、ヴラマンクといった名だたる画家たちの有名な作品が含まれている。 「退廃美術」の隠れた愛好家であったナチス高官、ハーマン・ゲーリングは没収した「退廃美術」のなかからゴッホやムンク、セザンヌ、シニャックなどの作品を私蔵した。いまひろしま美術館が所蔵するゴッホの『ドービニーの庭』はそのうちの一点で、ベルリンのナショナルギャラリーで1937年に「退廃美術」として押収されてゲーリングにわたり、戦後オランダのコレクターなど各地を流転したのちに現在に至っている。 ここではヒトラーとゲーリング、ゲッペルズらナチスの中枢の間に、「退廃美術」の選別をめぐって激しい暗闘があったことも知っておく必要があろう。 パウル・クレーはミュンヘンの「退廃美術展」に晒された『金色の魚』をはじめ、華麗な色彩や幾何学模様の抽象絵画を中心にして、102点がナチス当局に押収された。ユダヤ系画家という中傷によりデユッセルドルフの美術学校の教授職を追われた画家は、それからスイスへ亡命して1940年に死去した。 「失敗した画家」ヒトラーの〈昏い夢〉を託されて1937年、ミュンヘンで開いた二つの美術展の「顔」となった無名の画家、アドルフ・ツィーグラーはその後、利敵が疑われる私行をあばかれて秘密国家警察に逮捕され、失脚して強制収容所に送られた。 輝く美の都ミュンヘンは、鉤十字がはためき褐色のナチスの制服が覆う都市になった。
柴崎信三