〈失格画家〉ヒトラーが催した「大ドイツ美術展」と「退廃美術展」、輝く美の都ミュンヘンが褐色に染まった日
ドイツの歴史を貫く風土と民族を視覚化した作品として、この展覧会で展示された絵画は、19世紀風の農民や家族画のほか、ゲルマン風の女性をモデルにして神話的主題を描いたエロティックな裸体画や、逞しい筋肉を誇る男性の裸像も少なくない。 ヒトラーみずから出品作の審査に加わったこれらの展示の多くは、ツィ―グラーの『四大元素』がそうであったように古風で重々しい写実画で、作者も大半は対外的にはほとんど無名のドイツの画家たちである。それらは「古代の人間の理想化された身体像」を新しい時代の「美しい人間類型」とたたえた、総統ヒトラーの美意識の結晶なのである。
伝統を守るためのもう一つの展覧会
「大ドイツ美術展」でヒトラーが開会式にのぞんだ翌日、同じミュンヘンの街で「退廃美術展」という奇妙な展覧会が同時に幕を開けた。 会場は「ドイツ芸術の家」から遠くないミュンヘン大学考古学研究所の収納庫を急遽転用したという、対照的な展覧会場らしからぬ場所である。 これは「血と土」に根差したドイツ民族の伝統を脅かす、モダニズム絵画や彫刻などを徹底して排除するという目的で、ヒトラーの意向の下に「大ドイツ展」の〈陰画〉として仕組んだ、国を挙げての一大ネガティブ・キャンペーンなのである。 ここでは、あのアドルフ・ツィーグラーが開会のあいさつをした。 〈いま私たちは、多数の美術館がドイツ民族のなけなしの貯金を使って購入し、芸術として展観していた作品のほんの一部を、ドイツ全国から集めてきて展示しております。みなさんは私たちの周りに、狂気と鉄面皮と無能力と退廃によるできそこないの産物をご覧になっています〉(関楠生『ヒトラーと退廃芸術』) どのような作品がこの「退廃美術展」のやり玉に挙がったのか。実は前日の「大ドイツ展」の開会式で、ヒトラー自身が長口舌のあいさつでそれを披歴している。 〈キュービズム、ダダイズム、未来派、印象主義等々は、われわれドイツ国民と何の関係もない。というのは、これらすべての概念は古くも近代的でもなく、真に芸術的な天分の恩寵を神に恵まれない代わりに、おしゃべりあるいは惑わしの才能を与えられた人間どもの、わざとらしい吃りに過ぎない。政治的な混乱の領域と同じように、ここでもドイツの芸術生活のなかの決まり文句を一掃するのが、私の決心である〉 展示は第一室に信仰を風刺したような宗教画や彫刻、第二室はマルク・シャガールらユダヤ系の作家の作品、第三室からは表現主義やダダイズムといった新しい表現を通して、伝統に対する批判や風刺がいかに描かれたかを示す作品が並べられた。 全国の美術館から「退廃美術」として徴発されてここに展示された作品はもちろん、ドイツ人画家のものばかりではない。シャガールの『嗅ぎ煙草吸い』やクレーの『金色の魚』などのほか、ロシア出身のワシリー・カンディンスキー、オーストリアのオスカー・ココシュカ、オランダのピート・モンドリアンといった、印象派以降の近代美術の先端をゆく抽象絵画が「ドイツの脅威」としてさらしものにされた。 ヒトラーが上げた印象派や表現主義、キュービズム、ダダイズムやシュルレアリズムといったあたらしい動きは、その無国籍性と抽象性が「ユダヤ的」とあげつらわれて、徹底的に批判の対象とされたのである。