1993年11月、日本でインターネット商用利用が解禁[第1部 - 第6話]
伊藤穰一、デジタルガレージとの出会い
佐藤:当時、いわゆるインターネットの掲示板であるBBS(Bulletin Board System)を個人で立ち上げることができる「FirstClass」というソフトウェアがありました。僕も知人の会社に頼んで国際部にインストールしてもらい、海外支社とつないだのですが、それがもう面白くて(笑)。 その社内BBSには、仕事に関連する「○○の部屋」をたくさん作ることができました。それぞれの部屋にコメントを残したり、仕事関連のファイルを置いたりできるイメージです。「メールのやりとりもできて便利だよ」と勧めたら、みんな当たり前に使うようになりました。 杓谷:今でいうと、SlackやChatworkのような感じですよね。社員の方しか入れない掲示板なわけですから。 佐藤:そんな中、同期のひとりが研修旅行でニューヨークに行ったことを社内報で知りました。その社内報では、彼が米国で見た広告業界事情について書かれており、インターネット関連の話も載っていました。 そこで、その同期に「国際部も海外支社とネットワークを構築して仕事をしているよ」と話をしたところ、「これからはインターネットだよな」と盛り上がりました。その流れで伊藤穰一の話にもなったのですが、彼が「俺、伊藤穰一知ってるよ。紹介しようか?」と言ってくれて。こうした縁から、僕も伊藤穰一が設立に関わったデジタルガレージに出入りするようになりました。 佐藤:デジタルガレージは、デジタル時代に可能性を感じていた伊藤穰一と林郁が共同で設立した会社です。林郁はその前身となるフロムガレージという広告会社を運営していた方ですね。後になってわかったことですが、デジタルガレージは当時、米国のYahoo!を日本に持ってくる話を創業者のジェリー・ヤンと進めていました。結果的にYahoo!はソフトバンクの孫正義を選び、ソフトバンクの傘下でYahoo! JAPANを展開していくことになります。 デジタルガレージとしては、本命のYahoo!を孫正義に取られてしまったので、代わりに当時としては先進的なロボット型検索エンジンを開発していたポータルサイト「Infoseek」を日本に導入する方針に切り替えました。 こうした状況下でデジタルガレージに遊びに行くと、バイリンガルで20歳前後の若い外国人エンジニアたちが、インターネット技術に深く取り組んでいました。彼らは前述の「富ヶ谷」のウェブサイトを作っていたエコシスのメンバーでした。エコシスは伊藤穰一の会社だったんですね。 また、デジタルガレージには日銀出身の中村隆夫氏がCFOとして参画していて、当時ニュースにもなりました。同氏は後に伊藤穰一と共著で『デジタル・キャッシュ: eコマース時代の新・貨幣論』という本を出版しています。「こいつらなんだかカッコいいな、未来を切り開くワクワク感が満載だな!」と強く心惹かれましたね。 ・ デジタル・キャッシュ: eコマース時代の新・貨幣論 佐藤:一方で、デジタルガレージに行った後に旭通信社に帰ってくると、インターネットに対する感度がどうにも鈍いわけです。最先端のデジタルガレージと、社内の空気とのギャップを強く感じてしまいましたね。
コンペに負けてAppleのチームが解散に
佐藤:インターネットに対する期待感を膨らませつつも、僕はAppleの仕事をさらに大きくしたいと考えていました。そんな中、Appleの意向で大手総合代理店を交えたコンペをすることになり、氏家さんに依頼してアップルコンピュータのアニメCMを作ってもらいました。その時のプレゼンは、現場の担当者にはとても好評だったのですが、結局は大手の広告代理店に持っていかれてしまい……。1994年の年末には、旭通信社のAppleのチームは解散することになってしまいました。 次回は12/12(木)公開予定(隔週木曜日更新)です。