【光る君へ】中宮彰子に仕えた和泉式部の華麗なる恋愛遍歴 紫式部の辛口評価の内容とは?
NHK大河ドラマ『光る君へ』の第32回「誰がために書く」では、まひろ(紫式部/演:吉高由里子)が中宮彰子(演:見上愛)のもとに出仕し始める様子が描かれた。新参者のまひろを冷ややかに見つめるのは、中宮彰子のために集められた女房たちだ。史実では、紫式部が『紫式部日記』に同僚の辛口批評を書き残している。そのなかには、同僚・和泉式部に関する記述もあった。『光る君』へでは、恋に奔放に生きる艶やかな様子が印象的だが、史実の和泉式部はどのような女性だったのだろうか。 ■華やかな恋愛遍歴は道長や紫式部からマイナス評価 和泉式部は、平安時代を代表する歌人であり、詠んだ歌は千年の時を越えて、今も高く評価され愛誦されています。一方で和泉式部は恋多き女性としても有名です。その恋愛はたびたびスキャンダラスに語られてきました。 和泉式部は紫式部や清少納言、赤染衛門と同じ時代を生きた人でした。紫式部が記した『紫式部日記』には、清少納言や赤染衛門に対する論評とともに、和泉式部を批評した部分もあります。そこで紫式部は、歌の理論には精通していないなど、例によって(?)辛口な評価を下していますが、和泉式部の天賦の歌才はしっかり評価しています。紫式部は和泉式部のことを自然とフレーズが口をついて出てくるタイプの歌人だと述べています。和泉式部評は、一方的な批判に終始した清少納言評と異なり、是々非々の姿勢で貫かれているのです。 その中で、和泉式部について、次のように述べていることに注目されます。 されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。 (けれども、和泉式部は感心できないところがあります) 紫式部は具体的に述べてはいませんが、この「けしからぬかた」の内容は、和泉式部の男性関係を指していると考えるのが一般的です。紫式部がちくりと言いたくなるほど、和泉式部は男性遍歴が派手で有名だったのでしょう。和泉式部は紫式部よりも5歳前後年少で、この『日記』を書いている頃には、中宮彰子付きの女房として出仕したばかり(寛弘6年(1009)ごろの出仕と考えられています)、紫式部の後輩女房でした。紫式部と和泉式部の間に面識があったことは間違いないでしょう。「和泉」という言い方には、少し気安さも感じられるところです。藤原道長も和泉式部を「浮かれ女」と言ってからかっているように、当時の宮中で、和泉式部を恋多き女性、スキャンダラスな存在とする風評があったことは興味深いところです。 さて、感心できない男性関係があるという評価には、多分に冷泉天皇第四皇子敦道親王との恋愛が影響していたはずです。元々、和泉式部は兄宮の為尊親王と恋仲でした。しかし為尊親王は長保4年(1002)6月に急逝してしまいます。その翌年の4月、弟宮敦道親王(帥宮とも呼ばれました)からアプローチがあり、宮は和泉式部の許に通います。最終的には、寛弘元年(1004)正月、和泉式部は宮邸に召人として召し抱えられることになりました。召人は主従関係にありながら、主人筋の男性と男女の関係にある女房のことを言います。その時、敦道親王の北の方が怒って宮邸から出ていき、姉の許に身を寄せることになり、貴族社会の中でその醜聞は話題になりました。 北の方は亡き大納言・藤原済時の娘で、姉は東宮(後の三条天皇)の女御である娍子でした。高貴な血筋の北の方は、本来、身分が低く、召人である和泉式部の存在を無視することもできたでしょうが、北の方は、何かと話題になることが多い和泉式部が邸内に呼び寄せられることに耐えられなかったようです。そのあたりの経緯は『和泉式部日記』に詳細に書かれています。『和泉式部日記』は、帥宮からのアプローチから宮邸に入るまで、二人の間で交わされた150首近い贈答歌とともに記しています。どの歌もレベルが高く、さすが和泉式部というような名歌ぞろいであるとともに、敦道親王の歌もけっして劣ってはいません。 面白いことに、この『日記』の中でも、明らかに和泉式部は恋多き女性、スキャンダラスな存在として書かれています。例えば敦道親王の乳母は宮に向かって、「人々あまた来通ふ所なり」(男性達がたくさん通ってきています)と語っています。そのようなタチの良くない女だから、付き合い方を考えてくださいと言っているのです。また帥宮が和泉式部の家に行ったときに車がとまっていたのを見て、誰か別の男が来たと思って帰ったというエピソードも書かれています。北の方が宮邸から退出するときも、姉の女御までもが妹宛ての手紙の中で、和泉式部の宮邸入りを聞き、自分までもが人並以下に扱われている気がする、と述べています。 『和泉式部日記』は和泉式部ではない、第三者が書いたとする説もありますが、和泉式部本人が書いているとしたら、自分を周囲の人達がどのように見ているのかを客観的に知っていたということになるでしょう。平安時代の女房たちはいずれも個性的で、今のことばで言うと、キャラ立ちしています。和泉式部は自分の恋多き女性というキャラを強調しながら、何かとゴシップを好む宮廷社会をしたたかに渡っていたのかもしれません。 北の方退出後の敦道親王邸で、和泉式部は敦道親王が亡くなるまで過ごしました。寛弘元年(1004)、2人で葵祭の日に車に同乗して、宮側の簾は大きく上げ、和泉式部側の簾は下げ、出衣を垂らし、紅の袴に物忌の札を付けるなどしてパレードして、周囲の見物人達の度肝を抜いたと伝えられています。寛弘4年(1007)にわかに敦道親王は亡くなりました。宮を亡くした、和泉式部の痛切な思いは優れた挽歌として伝えられています。為尊親王・敦道親王の兄弟や後には娘・小式部内侍など、愛する人に次々と先立たれた和泉式部の人生は、悲しみに満ちたものでもあったでしょう。その2年後に和泉式部は中宮彰子の許に出仕し、紫式部らと同僚になりました。和泉式部もまた、彰子配下の女房集団の名声を高めるのに一役買うことになるのでした。 ■参考文献 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸