痩せているより小太り、白塗りがイマイチだと見苦しい、どんな悪条件があってもとにかく美しい髪…紫式部や清少納言が書き記した<平安美人の条件>とは?
◆紫式部が細かく不美人を描写!? では、平安時代に「美人ではない」と評されたのは、どんな容姿だったのだろうか。『源氏物語』「末摘花」で、「背はぬうとして高い。それに続いてこれは片輪(原文ママ)だと見えるのは鼻である。浅ましく高くって先の方が下に垂れて赤い。 顔の色は雪よりも白くてそして青い。額が非常に出ているのになお下の長い顔に見えるというのはよくよくの長い顔であると思われる。 痩せていることは甚しくて骨ばかりのような身体である」と髪を褒める前にこれだけ容姿に文句をつけているのである。 つまり、体格は小柄で、鼻は長大でなく、赤からず、鉤鼻(かぎはな)で小さいこと。 また、色は白く(青白いまでいくとよくないのであろう)、額の形はふっくらと丸みを帯びていて、顔立ちも下ぶくれであること、痩せているより少し太っていた方が美しいとされたようだ。 また、目は大きくなく、引き目で、俗にいうおちょぼ口が当時の美人の条件として紫式部は認識していたのであろう。現代とは全く違う感覚である。 これだけの悪条件を抱えても、末摘花の美しく長い黒髪は「美人の資格」があるとされたのだから、平安時代ではまさに「髪は女の命」だった。
◆白粉・紅・眉・お歯黒の公家男性 日本独特の白(白粉)・赤(紅)・黒(お歯黒)の和の様式美だが、平安後期になると公家の男性は「白粉・紅化粧」「眉化粧」「お歯黒」をするようになった。 殿上人(てんじょうびと)だけでなく、身分の低い舎人(とねり)まで白粉はつけていたようだ。 『枕草子』第2段に「舎人の顔のきぬにあらはれ、誠に黒きに白きものいきつかぬところは、雪のむらむら消え残りたる心地していと見苦しく……」とあり、白粉がのっていないところは雪の下から土がまだらに見えるようで見苦しいと言っているのである。 当時、鉛の白粉は高価なものだったため、化粧は高い身分や階級を示す象徴としての意味を持つようになった表れと言える。貴族の男性化粧は江戸時代まで天皇を含めて続いていたようだ。 『承安五節繪』には、登場人物それぞれの名前が記されており、おそらく実際の人物に似せて書かれているからか、「引き目鉤鼻(かぎばな)」ではない貴族も多く描かれている。
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