痩せているより小太り、白塗りがイマイチだと見苦しい、どんな悪条件があってもとにかく美しい髪…紫式部や清少納言が書き記した<平安美人の条件>とは?
◆「和の様式美」が確立した平安の化粧 次に、化粧について見ていこう。 平安初期の唐風文化の時代は、奈良時代から続く中国風の朝服姿に花鈿(かでん)という額に文様を描く化粧法であったが、遣唐使が廃止になり、日本独自の国風文化が開花して発達する中で、中国風メイクの花鈿は消えていく。 そして、真っ白な肌に引目鉤鼻(ひきめかぎはな)で下ぶくれの顔立ちが良しとされ、「美人=白い肌」が美人の条件に加わる。 ただし、白い肌が良しとされたのは、唐の漢詩に「楊貴妃(ようきひ)」などの白い肌の女性が美人の条件を満たした人と称していたことから、漢詩に通じていることが貴族の一般教養であった平安時代では、彼らがそこから白い肌が美人の条件という認識を持っていたことも理由の一つであろう。 また、当時貴族の住居であった寝殿造(しんでんづくり)の構造は、昼でさえ薄暗い室内だったため白粉(おしろい)を塗り暗い部屋の中でも肌が美しく見えるようにしたというのが通説である。 では、どんな化粧法だったのだろうか。
◆平安時代のメイクアップトレンドとは? 鉛から作るハフニという白粉で顔を白く塗り、紅花の紅を小さく口元にさし、頬にも赤い粉をつけ、「眉化粧」を施した。「眉化粧」とは眉を抜いて額に太く描くことである。 剃るのではなく、眉毛をすべて抜くのは相当痛かったに違いない。清少納言が『枕草子』第72段の「ありがたきもの」として「毛のよく抜くる銀の毛抜き」を挙げている。 眉を抜く理由は、感情の現れやすい眉毛を抜き、額に描いた眉なら感情を相手に読み取られることなく、常に穏やかで高貴な雰囲気を醸(かも)し出せるという平安貴族独特の美意識であった。 また、「お歯黒」であるが、古くからあったようで、虫歯予防に使われたという説もある。 上流階級では、十歳前後の女性は成人のしるしとなる通過儀礼として定着し、その後、女性の間では江戸時代には庶民まで広まった。 しかし、衛生的に良くないという理由から、明治時代に入り「お歯黒」と「眉化粧」は禁止されている。 これら、白(白粉)・赤(紅)・黒(お歯黒)の三色が日本の化粧の基本となり、江戸時代まで続く和の様式美として浸透していった。 また、身だしなみの一つとして「香」も取り入れられ、「練香(ねりこう)」が発展、定着する。 「練香」とは沈香(じんこう)など粉末状の原料を蜜や梅肉などで丸薬状に練り固めたお香で、自ら香りを調合し、オリジナルの香りを嗜みとして衣服にその香りを薫(た)き染(し) めた。
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