日本刀鑑賞会で騒いだ職人の血、50歳近くで弟子入り志願し修業5年…「豊後刀」復活に情熱燃やす
「火床」から燃え立つ1400度の炎に、鋼を差し込む。熱して真っ赤にした後、手製の大づちでたたいて固める。火花が散り、甲高い音が響いた。大分市の住宅街にある工房では、12月というのに半袖姿の刀工、新名公明さん(57)(刀工名・平清明)が「理想の刀を作るには、一振り1か月はかかる」と息を吐いた。 【表】主な国宝の日本刀と産地
平安時代から幕末にかけ、豊後(現在の大分県)で作られた日本刀「豊後刀」。丈夫で切れ味が鋭く、実用的な刀として多くの武士が愛用したとされる。特に、現在の大分市高田地区で作られた「高田物」は、かつてこの地を治めた戦国大名、大友宗麟の北部九州制圧の原動力になったとされる。ただ、明治期の廃刀令などの影響で生産が途絶えたという。
備前(岡山県)、山城(京都府)など日本各地の名刀は今でも広く知られる一方で、豊後刀は産地の大分でも知る人は少ない。新名さんは「古里の名刀が完全になくなってしまう。一人でも多くの人に目を向けさせたい」と復活に情熱を燃やす。
大分県臼杵市の山あいで生まれ育った。海に憧れて入学した水産高校を卒業後、ガソリンスタンドや精肉店、商社などに勤務した。20歳代後半で、低迷していた父親が経営する造園会社に入社。機械整備や建設関連の資格を取り、職人として新事業を展開した。
会社の経営も安定してきた約10年前、県の刀剣審査委員を務める甲斐敬一さん(58)の誘いで、日本刀の鑑賞会に出向いた。日本刀の作り方も知らなかったが、講師から豊後刀と大分県内に刀工がいないことを聞き、「私が(刀工に)なります」。職人の血が騒いだ。「簡単なものじゃない」と講師から一蹴されたが、かえって火がついた。
甲斐さんは「50歳近くで刀工になるなんて、どうかしていると思った。ただ何よりも、バイタリティーが違った」と振り返る。
西日本の工房を訪ね歩き、刀について学んだ。「5年間の修業が必要とされ、その間は無給。挫折する人をたくさん見てきた」と刀工の松永源六郎さん(76)(熊本県荒尾市)に一度は断られながらも、口説き落として弟子入りした。会社経営の傍ら、松永さんの工房に通い詰めた。約5年間の修業後、2019年に文化庁から刀工として承認された。