「そんなの無理でしょ」全国高校駅伝26年前の奇跡…部員は「卓球部やスキー部の素人ばかり」なぜ無名校の“寄せ集め集団”が「全国4位」になれた?
今年も全国高校駅伝の季節がやってきた。今季の優勝候補筆頭が5000m13分台のランナーを5人揃え、同校初の連覇を狙う長野・佐久長聖高校だ。今年で27年連続の全国出場、24度の入賞という驚異的な安定感を誇る同校だが、いまから四半世紀前――初めて京都の舞台を踏んだチームは、まさに「寄せ集め」集団だった。それでも初出場で“全国4位”に食い込んだ名門の黎明期を振り返る。《NumberWebノンフィクション全3回の1回目/つづきを読む》 【貴重写真】「こ、これが100年に1人の逸材の走り…」黎明期の佐久長聖に現れた“伝説のランナー”佐藤清治184cmの超ダイナミックフォーム…26年前、初代・佐久長聖チームの都大路での激走も見る 「何を言っているんだろう、この人――」 今を遡ること約30年前の1995年。中学3年生だった松崎雄介は、自身を勧誘に訪れた高校教諭の話を聞いて、そんなことを考えていた。 「5年以内に都大路に出場することを目指しています」 目の前にやってきた佐久長聖という聞いたこともない高校の、両角速という聞いたことのない指導者は、そんな言葉を紡いでいた。聞けば、自分たちは両角を監督として新設される駅伝部の1期生に当たるのだという。
陸上部とはいえ…なぜ「短距離選手」を勧誘に?
陸上部だった松崎はもちろん都大路が全国高校駅伝を意味することは理解していた。 だが、だからこそなおさら解せなかった。なぜなら松崎は、短距離種目の長野県大会で優勝したスプリンターだったからだ。 「田舎の中学の陸上部ですから、人数合わせで駅伝を走った経験はありました。実は当時、両角先生はウチの長距離エースを勧誘しに来ていて、断られたらしいんです(笑)。それで、曲がりなりにも駅伝経験があった自分たちも顧問の先生が紹介したみたいで」 当時、佐久長聖という高校は、中高一貫校になって校名が変わったばかりの新興校だった。松崎も旧名の佐久高校時代に甲子園でベスト4まで進んだイメージから「野球が強い高校」程度の印象しかなかったという。 そんなところで、本格的にやったこともない種目で、新監督はいきなり「全国大会を目指せ」と言う。そんな漫画のような出来事は、とてもではないがにわかには信じられなかった。 ただ、その一方で、「わざわざ自分に声をかけてくれた」というスポーツに打ち込む中学生らしい高揚感もあった。両親からは「地元の進学校へ進んだ方が良いのでは?」という反対もあったが、結局、「声をかけてもらった嬉しさが強すぎた」という単純な理由で、松崎は佐久長聖への入学を決めた。 1996年の4月、松崎は佐久長聖高駅伝部の1期生として、同校へと入学した。 と同時に、周囲を見て軽く頭を抱えることになった。自分も含め、同期で入学してきた駅伝部員は6人。だが、その半数は卓球部、スキー部、そして短距離走者の自分と、そもそも長距離走とは縁遠いメンツだったからだ。 残りの3人も長距離経験者だったとはいえ、県レベルですら実績があるわけでもない。にもかかわらず、変わらず両角監督は「全国を目指す」と言っているのである。 その「スキー部出身」こと小嶋卓也も、入学前の様子をこう記憶している。 「中学時代はスキーが中心で、たまに駅伝になれば陸上にも駆り出される程度。(※中学生長距離ランナーの指標になる)3000mは公式戦で走ったことはなくて、1500mで4分50秒とかがベストだった気がします。たしか当時はテレビでやっていた『箱根駅伝に出たいなあ』とはうっすら思っていて、そんな中で両角先生が声をかけてくれたので、嬉しくて進学を決めた感じでした」
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