「そんなの無理でしょ」全国高校駅伝26年前の奇跡…部員は「卓球部やスキー部の素人ばかり」なぜ無名校の“寄せ集め集団”が「全国4位」になれた?
夏の帰省後…1期生たちに起こった「変化の兆し」
8月。寮生活だった1期生たちに、入学後はじめての帰省が許された。一方で、その帰省期間には、お隣の山梨県でインターハイが開催されていた。そして、その話は両角監督から折に触れて伝えられてもいた。 「多分、両角先生も僕たちを試していたと思うんですよね。地元の近くで、高校のトップランナーが来る機会があるわけじゃないですか。先生から『見に行けよ』とは言われていないですけど、もし本気で全国を目指すようなメンタリティがあれば、自然と見に行きたくなるはずなんです」(松崎) 結論から言えば、松崎たち6人の中で大会を見に行った者は1人もいなかった。小嶋も苦笑する。 「たぶん、当時の高校生でも隣県なら電車で十分行けたんですよね。でも、みんな普通に帰省しちゃって(笑)。それで休み明けにめちゃくちゃ怒られたんです。『お前たちはどこを目指してやっているんだ』って」 そしてその言葉は当時の松崎や小嶋には強く響いた。 帰省直後ということもあり、決して実績があるワケではない新興校にさまざまな費用を負担しながら通わせてくれる両親のことも頭に浮かんだ。なにより監督の両角が、本気で自分たちと都大路に行こうとしているという情熱が伝わってきた。 「自分たちの気持ちと、周りの気持ちに凄く差があることに気づいたというか。確かにこんなに周りに助けてもらって、当時は全然、有名でもない高校に来ているわけです。じゃあ真剣にやって、全国くらい行かなきゃ割に合わないよな……と」(松崎) もちろん長距離という種目は突然、飛躍的な覚醒をすることはない。実際にやること自体はそれまでと変わらなかった。だが、意識の面では大きな変化が起きた。 「もともと両角監督からは『人間的な成長なくして、競技の成長なし』とは言われていたんです。トレーニング以上に授業態度などの学校生活や、早寝早起きといった私生活面については口を酸っぱくして指導を受けていました」(小嶋) ただ、そこまではどこかその指導を受け身で捉えていた。 ところが、夏の叱責を経て「全国にいきたいなら、早く寝なきゃ朝練に支障が出るな」というように「全国大会」をリアルな基準に置いたことで、自然と自分で主体的に律することができるようになっていった。 すると、秋になるころには自分たちでも驚くほどの記録の伸びが起こった。松崎が言う。 「それまでは長距離経験のある1人が群を抜いたエースという感じだったんですが、僕が秋に5000mを14分台に乗せることができて。たしか当時、1年生で14分台の記録は長野県では初めてだったんです。それは大きな自信になりました」 また、小嶋もこの段階で5000mのタイムを15分ヒトケタまで伸ばし、秋の新人戦では3000m障害で北信越大会の3位に食い込むなど、少しずつ結果が出はじめていた。
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