「そんなの無理でしょ」全国高校駅伝26年前の奇跡…部員は「卓球部やスキー部の素人ばかり」なぜ無名校の“寄せ集め集団”が「全国4位」になれた?
最初の練習は…「女子部員と一緒に30分ジョグ」
松崎は、入部して最初の練習をいまでも覚えている。 「女子部員と一緒に30分ジョグをしたんです。両角先生が先頭で、みんなで雑談しながらそのへんの道路を走って。今じゃ考えられないですよね(笑)。帰ってきて、時計を止めたらジャスト30分00秒で『一流ランナーの体内時計ってスゴい! 』と思った記憶があります」 そんな牧歌的な練習しかできないメンバーの実力的な問題に加えて、当時、近隣には陸上競技用のトラックが無く、練習環境も基本的にはロードを走るだけだった。 当初は両角監督が赴任する際に、学校の持つ土地に陸上トラックを作る計画があったそうだが、実際に予定地を工事してみると地下から「遺跡」の一部が出てしまった。そのためそこから工事を進めることができず、頓挫してしまったのだ。ちなみにこの「遺跡」の上を両角監督自ら整備したのが、いまとなっては有名な佐久のクロカンコースとなっている。 恵まれない環境と、高いレベルのトレーニングはできないメンバー構成。 そんな状況の中で両角監督が1期生たちに求めたのは、まずは練習の「質」ではなく普遍的な「量」だった。松崎が当時の練習を振り返る。 「最低でも60分ジョグを毎日。ポイント練習では1万2000mとか1万6000mのペース走とかですね。とにかく距離を踏んで、完休の日なんてない。毎日毎日、ひたすら走り込みです(笑)」 インターバルやレペテイションのようなスピード練習は、ほとんどなかった。というよりも、そういった高強度の練習は、実力的に「できなかった」というのが正確なところかもしれない。小嶋も振り返る。 「最初は全国大会への道筋なんて、とてもじゃないけど見えない。もうほんとにただただ先生に言われたメニューをやるのに必死という感じでした。確か最初に走った5000mは17分以上かかっていたと思います」 全国レベルの強豪校であれば、当時でも1年生で5000m14分台の記録を出すことは珍しくなかった。それと比すれば、そこには優に400mトラック3周分に迫る差があったことになる。 そんな状況だった松崎や小嶋ら1期生たちに、大きな変化が起きたのは1年生の夏のことだった。
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