「まるで獲物を狙う獣の姿」野田秀樹が目撃した「篠山紀信」という人の力
篠山紀信さんは歌舞伎しかり、現代劇しかり、多くの「舞台」を撮り続けてきた。たとえば、坂東玉三郎さんとのタッグは、FRaU本誌でも繰り返し誌面に掲載してきた。歌舞伎の華やかさ、古典的な魅力と新しい挑戦。その舞台に立ち会った瞬間でないと見られないものを、瞬間を見ていなくても共有できる「写真」に記録していた。 【写真】篠山紀信先生の遺影を前に弔辞を読み上げる野田秀樹さん そして野田秀樹さんと篠山さんとのタッグもまた、「舞台」「写真」の力を感じさせてくれるものだった。『赤鬼』『兎、波を走る』『表にでろいっ』『アンビリーバブル』『THE BEE』『Q』etc……稽古場から足を運んで撮影したものも多く、2001年、野田さんが故・18代目中村勘三郎さんとタッグを組んだ新しい歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』上演のときには、「新しい歌舞伎」の一枚を切り取っていた。表現者として「今」を撮り続けてきた篠山さんにとっては、新しいことに挑み続ける野田さんは「撮り続けなければならない人」だったのだろう。 では、野田さんにとって篠山紀信さんはどんな存在だったのか。2024年12月3日にホテルオークラ東京にて開催された「篠山紀信先生を偲ぶ会」で野田秀樹さんが贈った弔辞を全文掲載する。
野田秀樹さんの弔辞全文(本人の手書きの弔辞を生かしています)
篠山さん。このお別れのコトバを書くために中野の新井薬師商店街でJAZZがガンガンかかるカフェに入って、よし書くぞと。パソコンを開いたら、店の人が飛んできて、「この店はパソコンを使えないんですよ、お店を出られますか?」と言われたので、パソコンはやめてこの和紙に今、ぶっつけで書き始めました。ミスは許されません。大変なプレッシャーです。 「これ、あんたのエッセイじゃないんだから、余計な事言わないで、さっさと私のことを褒めなさいよ」という篠山さんの声が聞こえてきます。その声に従います。褒めます。でも最初は意表をついて、私が篠山さんに褒められた話から始めます。 私が30代の初め、篠山さんが私の芝居を見た帰りしなに楽屋で、篠山さんから「あなたは溢れかえる才能を毎朝、バケツですくって捨ててるでしょう」という私の人生で最大の賛辞をいただきました。ただ、だいぶたって、その話をしたら篠山さんは、全く覚えていませんでした。私は、「あの篠山紀信に褒められた!」と半年くらいは浮かれて生きたというのに、ひどい人です。 実際篠山さんは人をのせるのが上手で、のせた割には深追いしない。恋愛の達人のような方でした。それは撮影現場でもそうでした。決して人を緊張させず意識させずにいつの間にか思いもかけないものを撮ってくれました。 私が歌舞伎座で、18代目中村勘三郎と創った歌舞伎を撮っていただいた時もそうでした。ふつう舞台写真は、芝居中の写真が主ですが、篠山さんは、歌舞伎座の客席で私が勘三郎にダメ出しをしている瞬間をとらえていました。そのダメ出しを聞く他の役者たちの実に嬉しそうな顔、それは今まで中村勘三郎という稀代の名優が他人から人前でダメ出しを受けるなどとゆうことは、ありませんでしたので「やられてるぞ~勘三郎が~」と皆、嬉々として微笑みを浮かべている、そして勘三郎ひとり苦笑いをしている。その瞬間を篠山さんも間違いなく嬉々としてとらえたのです。あの時、私も勘三郎も撮られていることを知りません。以来、どうやって、ああいう瞬間が撮れるのか、私はしばしば篠山さんの撮る姿を観察するようになりました。 そしてある日遂に、篠山さんが気配を消して、被写体のそばにまるで写真など撮る気がないように、わざと被写体に背中を見せながら近づいていく姿を見つけました。それは、獲物を狙う獣の姿でした。そして、やをら、振り向きざまにカメラを構え、さっと撮り、その場から立ち去るのでした。なんて人でしょう。あとで篠山さんにあの技、凄いねと言ったら、「本気を出せば私フライデイもやれちゃうのよ」と嬉しそうに話をしていました。