秀吉に及ばなかった柴田勝家の「統御」
■信長にも認められていた柴田勝家 柴田勝家(しばたかついえ)は、織田家の重臣として北陸方面で活躍したものの、本能寺の変後に秀吉との権力争いに敗れ自刃(じじん)したため、武辺一辺倒の武将というイメージが強いかと思います。 しかし、勝家は信長から行政官としての信頼も得ていたようで、初期のころは京都や畿内の行政を担う奉行として名を連ねています。軍事・行政の両方を評価されたのか、一向一揆の影響が強く残る北陸方面で、軍事に長けた上杉家と対峙する役目を任されています。 勝家は明智光秀の討伐に間に合わず、その後の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで秀吉に敗れますが、これは勝家による自軍の「統制」に原因があったと思われます。 ■「統御」とは? 「統御」とは辞書によると、「部隊を統率するにあたって心的作用により部隊の心的な要素を強化することによって非合理的・精神的な面で任務遂行を指導すること」とされています。これは「狭義のリーダーシップ」でもあり、部下が自ら死地に赴けるほどの信頼関係を築くことで発揮される力です。これは戦場で指揮を行う際に非常に重要な要素となります。 現代のビジネスにおいても重要な要素であり、リーダーの「統御」が組織に及ばなければ、業務の遂行は困難になります。勝家は信長が死去した後の混乱の中で、自軍の「統御」が原因となり、秀吉に遅れを取ることになります。 ■柴田家の事績 柴田家は出自が明確ではなく、尾張を本貫とする土豪と言われていますが、それも定かではなく、織田信秀(おだのぶひで)のころに勝家が仕えたのが始まりとされています。後に、信長が率いる織田家の筆頭家老と目される存在にまでなりますが、当初は信秀によって信長の弟信勝(のぶかつ/信行)の家老に配されます。 信秀の死去にともなう後継者争いにおいては、同僚の林秀貞(はやしひでさだ)とともに信勝を支持して、稲生(いのう)の戦いで敗れています。 その後は信勝から離れ、信長に使えるようになります。1568年ごろから重用されるようになり、蜂屋頼隆(はちやよりたか)たちとともに先陣を努めるようになります。比叡山焼き討ち、一乗谷(いちじょうだに)の戦い、小谷城の戦い、長篠の戦いなど織田家の主要な戦に参加しています。 越前の一向一揆を殲滅すると、北ノ庄(きたのしょう)49万石を拝領し、北陸方面の司令官として、前田利家(まえだとしいえ)や佐々成政(さっさなりまさ)たちの与力と共に加賀攻略を任されます。この頃には古参の重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)が追放され、勝家が織田家の筆頭家老と目されるようになっていました。 そして、上杉家の勢力下にあった越中国魚津城の攻略に成功し、上杉家の本拠である越後国に迫ります。しかし、魚津城を陥落させた勝家たちの元に、本能寺の変の報せが届き、諸将に動揺が走ります。