秀吉に及ばなかった柴田勝家の「統御」
■本能寺の変における勝家と秀吉の「統御」の差 本能寺の変が起きた6月2日の時点では、勝家率いる北陸方面軍は上杉家の魚津城を包囲しており、翌3日になって落城させます。そして、更に越中松倉城へと軍を進めて、上杉家の越後春日山城へと迫ります。 しかし、6月4日頃に信長死去の知らせを受けると、勝家は急ぎ本拠地の北ノ庄城へと帰還します。 魚津城は、織田軍が逃散するような形で放棄されたと言われています。越中を任されていた佐々成政たちに後方の備えを任せますが、諸将の足並みが揃わなかったことに加えて、上杉家の反撃と煽動を受けて織田軍は身動きがとれなくなってしまいます。 その煽動が越前にまで及んだことで、勝家も自領の沈静化に手間取ることになり、近江への出陣は6月18日と大幅に遅れたと言われています。 一方、備中松山城を攻囲中の秀吉は、6月4日未明頃に本能寺の変を知ると毛利家だけでなく織田軍内にも厳しい情報統制を図ります。そして、急ぎ毛利家と講和を結ぶと、備中松山城には一門の杉原家次を置き、備前には宇喜多秀家(うきたひでいえ)、伯耆には南条元続(なんじょうもとつぐ)、姫路城には浅野長政(あさのながまさ)を配し、後顧の憂いを断つように配慮しています。 その後大きな障害もなく、6月12日には摂津富田に着陣しています。秀吉は敵方への対処だけでなく、自軍の「統御」を見事に行い、中国大返しを成功させました。 ■賤ヶ岳の戦いでの勝家軍の自壊 その後の清須会議において、一時的に平穏を見せつつも、秀吉と勝家の権力争いは激化していきます。 秀吉が毛利家や上杉家と交渉を進め、織田信雄(のぶかつ)や池田恒興(いけだつねおき)、丹羽長秀(にわながひで)など織田家中の諸将と協力関係を構築する中、勝家も雑賀衆(さいかしゅう)や長宗我部家、伊勢の滝川一益(たきがわかずます)や美濃の織田信孝(のぶたか)を陣営に迎えて対抗していきます。 そして勝家は、秀吉と雌雄を決するため近江へ出陣します。勝家の思惑どおりに秀吉軍は近江・伊勢・美濃の三方面へ兵力を分散させられました。近江の初戦では佐久間盛政(さくまもりまさ)の活躍によって中川清秀を打ち取るなど、勝家は戦いを優勢に進めていきます。 劣勢となったものの秀吉側では寝返りや離反の動きはなく、逆に丹羽家の援軍によって賤ヶ岳を再度確保することに成功し、戦況は流動的になります。 そして、勝家軍と秀吉軍は賤ヶ岳にて激突します。序盤は戦力が拮抗していましたが、突如として前田利家が戦場を離脱してしまいます。金森長近(かなもりながちか)たち与力の一部も、利家同様に戦場を離脱してしまい、勝家軍の士気が一気に下がり劣勢となります。 最終的には秀吉軍の猛攻を支え切れず、勝家は北ノ庄へと退却し、妻とともに自害することになりました。 ■危機的な状況における「統御」の重要性 勝家は一向宗の影響が強く難地ともいえる北陸方面を任されていた点からも、信長から行政面でも期待されていた事が分かります。また、秀吉との対決に備えて、足利義昭の擁立を図り、織田信孝や滝川一益などと協力関係を結ぶなど外交能力も有していました。 しかし、本能寺の変も含め、危機的な状況において、与力を含めた自軍の足並みの乱れを防ぐ事ができませんでした。 現代でも組織の危機的な状況において、リーダーによる「統御」が及ばず、メンバーの足並みの乱れや離脱から、業務を停滞させてしまい悲惨な結末を迎えてしまう事は多々あります。 もし、勝家が魚津城攻略後に秀吉のように情報統制および上杉家への対応と自軍の「統御」に成功していれば、その後の結果は違ったものになっていたかもしれません。 ちなみにキリシタン以外には厳しいルイス・フロイスからは、勝家は勇猛かつ温情ある人物であったと評価されています。
森岡 健司