【大炎上】黒人「弥助」のハリウッド映画化はどうなる? 「ブラック・サムライ」と見なすことの是非 織田信長に仕えたアフリカ人
■弥助は「サムライ」だったのか? パリ五輪の開幕直前、SNS上で炎上が起きた。フランスのゲーム会社による新作ソフト『アサシン・クリード・シャドウズ』のリリースを受けての炎上だ。このゲームの主人公の一人が「弥助」という織田信長に仕えた実在の人物であり、それが「伝説の侍」として紹介されていたことに対して、「歴史の歪曲につながる」との声が上がったのである。 史実としては、弥助の本名は不明。出身地は現在のモザンビークのあたり。黒人奴隷として転売を重ねられるうち、インドでイエズス会宣教師のヴァリニャーノに買い取られ、ともに来日。織田信長にたいそう気に入られたので、後日、ヴァリニャーノから信長に献上された。 江戸時代初期に成立した信長の一代記『信長公記』は弥助について、「年齢は26か27くらいに見えた。全身が牛のように黒く、健康そうで立派な体格だった。しかも力が強く、十人力以上である」と記している。 彼に関する情報はほとんどないが、果たして弥助はサムライ(侍)になれていたのだろうか? ■ウィリアム・アダムズ(三浦按針)はサムライか サムライの定義は時代によって大きく異なり、現代の日本人がイメージするのは新渡戸稲造の『武士道』(英語による原本は1899年刊行)に描かれた極端に理想化された姿だろう。しかし、弥助が日本にいた戦国時代最末期のサムライの実像とは似ても似つかない。 当時のサムライの定義は、一つの考え方としては、「武家の主君から所領と給与としての扶持米(ふちまい)を与えられるか、旗本や小姓など武家の役職に就いている者」といえる。 少し後の時代になるが、徳川家康に仕えたイギリス人のウィリアム・アダムズ(日本名は三浦按針)は250石の旗本、オランダ人のヤン・ヨーステン(日本名は耶揚子)は50人扶持の旗本に取り立てられているから、サムライと見なして問題ないだろう。それでは弥助はどうか? 弥助については「小姓」と説明されることが多いが、実のところ、これに明確な根拠はない。ただし、徳川家康に仕えた松平家忠が書き残した『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)条には、「上様御ふち候大うす進上申候、くろ男御つれ候(信長様が扶持を与えたという、イエズス会宣教師から進呈された黒人を連れておられた)との記述がある。 また、『信長公記』の伝本の中に、「弥助が私宅と鞘巻(太刀)を与えられ、時には道具持ちをした」と記すものがあり、もし、これらの情報が正しければ、弥助はサムライとして遇されていたことになる。 ■「世界ふしぎ発見」でも弥助を特集 結局のところ、史料の絶対的な不足から、弥助がサムライであったか否か断定することはできない。 しかし、2013年6月8日に放送されたTBS系列のテレビ番組『日立 世界ふしぎ発見!』では「信長最期の刻 本能寺にいた〈漆黒のサムライ〉を追え!」といった特集があり、2021年5月15日にNHK総合テレビで放送された特番でも「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」というタイトルであるなど、少なくとも日本のメディアの世界では弥助をサムライの肩書で呼ぶことが定番化している。 それは欧米のエンタメ界もいっしょで、ハリウッドでワーナー・ブラザースによって製作中の、弥助を主人公とした映画の仮タイトルも『Black Samurai』である。これの日本公開時にも、同じような炎上騒動が起きるのだろうか。
島崎 晋