ジャニーズ性加害問題の本質はテレビ局の堕落 「視聴者がそういう番組を欲しているから」の言い訳はもはや通用しない
アイドルと人気資本主義
近代、映画という「舞台の複製」が出現する。芸能者の魅力が大量生産の対象となって銀幕のスターとなり、裏稼業的な興行者は映画産業となる。ハリウッドには全米の若い女性がおしかけ、そこで力をもつ人々はその性的な魅力と莫大な利益をむさぼった。 戦後、娯楽の対象が映画からテレビに移れば、芸能者にも変化が起きる。老若男女が集うお茶の間では、突出した魅力をもつスターより、誰からも可愛がられる人気者としてのアイドルが主役となる。特に、家社会的な同調性を重視する日本では、歌や踊りや演技といった本来の芸よりも、アイドル(偶像)であることが重宝される。 「グループ・サウンズ」とは、ビートルズ以後、人気となった男性アイドルの歌手グループを意味し、「スター誕生」とは、アイドルの卵を釣り上げる装置としての番組であった。そしてジャニーズの時代がやってくる。憧れのまなざしがテレビを中心とするメディアによって増幅される。企業は、製品の魅力をアイドルの魅力に重ねようとする。 戦後日本の経済躍進を支えたのは、家電、自動車、カメラ、時計など、ものづくりであり、その性能の高さであった。しかし情報化社会となって「製品の性能」より「商品のイメージ(人気)」が重視される。製品資本主義から人気資本主義へと、資本主義の質が変わったのだ。 マンガやアニメやゲームのキャラクターも、ミッキーマウスやスヌーピーやキティちゃんも、近年雨後の筍のごとく出現したゆるキャラも、羽生結弦や大谷翔平のようなスポーツ選手も、アイドルとして、人気資本主義の巨大なマーケットに組み込まれる。
「気概」が感じられないテレビ番組
かつてテレビの世界にも、戦後日本に登場した新しい文化を担おうとする意欲ある人々がいた。青島幸男、永六輔、大橋巨泉、テレビマンユニオンのメンバーなど。歌手も、俳優も、タレントも、プロデューサーも、ディレクターも、作曲家も、作詞家も、振付師も、映画や舞台に対抗して新しい文化をつくろうとする気概があった。しかしバブル時代以降であろうか、テレビ文化創成期の人々が去るとともに、ただ軽薄な視聴率稼ぎの路線が敷かれ、番組から文化的な創造力が薄らいでいく。 また民放の報道番組のメインキャスターには、元NHKのアナウンサーや、意識の高い新聞記者や雑誌編集者など、それなりの知識と見識のあるジャーナリストが起用された。しかしある時期から、ただ早口で喋るだけのタレントが起用され、報道から真摯な批判性が薄らいでいく。 そして今は、どのチャンネルをまわしてもアイドルとお笑い芸人ばかりで、東京のジャニーズ事務所と、大阪のこれも一時問題になった某お笑いプロダクションが大きな力をもつにいたる。 テレビ番組に、報道者としての、あるいは文化創造者としての気概が感じられなくなったのだ。放送法で定められた番組審議会も形骸化し、逆に権力が介入することもあり、自浄能力を失ったような気がする。テレビの、特に地上波の番組は社会の隅々にまで暗黙のコンセンサスを染み込ませるものだ。「静かなる洗脳」といってもいい。公共の電波を使う放送事業者としての矜持を失った安易な姿勢が、日本社会全体に広がったのではないか。幕末明治以来、日本の若者は、良くも悪くも常に思想的批判的行動のエネルギーをもっていたが、今はすっかり影をひそめている。 そう考えれば、ジャニーズ事件の本質は、スターとしてのアイドルを夢見る若者の夢を(たとえそれが幻影であっても)実現する組織として存在する芸能プロダクションよりも、むしろ、本来社会の木鐸をもって任ずべきテレビ局の文化的堕落にあるのではないか。「視聴者(国民)がそういう番組を欲しているからだ」という主張もあるに違いない。しかしオピニオンを導くという点において、教育や活字メディアをしのぐほどの影響力をもつにいたった今日、その言い訳は通用しないだろう。 今後、林弁護士を中心として、テレビ放送という社会的存在の本来のあり方を追求する特別チームを設置したらどうか。もちろん、政治権力が介入することによってファシズムの道具となることは避けなくてはならない。必要なのは上からの道徳や制御よりむしろ自発的「気概」である。この国の復活は、そのあたり(精神的根底)から始まらなくてはならないように思える。