鉄砲作りの技術はやがて花火、望遠鏡へ。最強の矛と盾「石垣の穴太衆」と「鉄砲の国友衆」を巡る
ミュージアムの2階には、火縄銃が50挺あまり保存されている大展示室や、実際に担いで覗くことができる火縄銃体感コーナーなどがあり、どれも見応え十分でした。 江戸時代には国友衆の中から国友一貫斎(くにともいっかんさい)という「江戸時代のエジソン」、「東洋のエジソン」とも言われる天才科学者を生み出します。 優れた鉄砲鍛冶でもあり、その技術の高さは展示されている見事な大筒でもわかります。 やがて時代は戦から太平の世へ移ります。一貫斎は国友の年配者たちとは違う生き方、探究をしていったのでしょう。展示室では彼が発明した反射望遠鏡なども紹介され、日本人として初めて、天体観測で太陽の黒点や月などを観測するなど、その功績は見事です。空を飛ぶ乗り物、つまり飛行機の構想まで練っていたというから驚きです。 国友の火薬を扱う高い技術は、平和な世の中へ変貌した江戸時代には花火の制作へも応用されました。ものづくりの原点とも言える国友衆の活動には、心底感服しました。 ちなみに、ミュージアムの近くには長浜キャノンというプリンター製造などの大企業がありますが、あえて社名に「長浜」を入れて、国友鉄砲鍛治がもたらした当時の最先端技術のように、製品開発に取り組む姿勢を表しているのだそうです。
ミュージアムを出る際に、スタッフに小説「塞王の楯」で描かれていた「石垣の穴太衆」との対立は実際にあったのかを尋ねてみました。 実際にそういった史実は伝わっておらず、あくまでも技術集団にすぎなかったとのこと。ですが、小説に描かれていたように、それぞれが戦地に赴いたことはあったそうです。 あくまでもフィクションではありますが、想像を膨らませるのは面白いものです。また、銃の扱いは国としてもシビアなものなので、国友の鉄砲作りの技術は現在には残っていないようです(古くは作れる職人も残っていたようなことも言われていましたが)。 現在は銃の管理自体も大変で、警察により展示している銃が機能しないものかどうかの確認もあるのだとか。 ミュージアムを出た後は少し町を散策しました。最盛期は70軒、500人以上の職人がいたという国友は、職人を生み出した誇りや気品のようなものを感じられました。またいつか、あらためて訪れてみたいと思います。
バイクのニュース編集部