落合博満「これが、俺を育ててくれた東芝府中だよ」金欠時は炒飯を白飯に…知られざる社会人時代のリアル「定年まで東芝で勤めようと考えていた」
引退後も定年まで東芝で勤めようと考えていた
落合が加入した時の東芝府中野球部の練習は終業後で、若手には量が足りない。それがケガにもつながり、強豪にはなかなか勝てなかった。だが、'73年に寮が完成するなど、会社も野球部の強化に少しずつ力を入れるようになった。落合の1歳上で、佐賀の唐津東高から'71年に入社していた松尾哲也は、落合のはじめの印象をこう語る。 「高校時代からのおおよその経緯は聞いていて、走り込みではブランクによる体力不足を感じさせる面もありました。ただ、練習の前後に遊びで相撲を取ると、足腰の強さは半端じゃない。しかも、私がはじめに勝ってしまったら、その取り口を頭に入れ、それからは1回も勝てませんでした」 そして、バットを手にすれば本領を発揮。落合が放つ打球は外野後方の防球ネットを飛び越え、周辺の民家に着弾してしまう。野球部の予算はネットの嵩上げに費やされ、いつしか“落合ネット”はレフトからライトまで張り巡らされた。松尾は続ける。 「私と同期の野嶋正志という投手が強豪相手でも抑えられる力をつけ、落合と投打の柱になり、次第にチームは都市対抗出場も狙えるようになりました。私も投手でしたが、ピンチになると落合はマウンドに来て『次の打席で必ず打つから、ここは踏ん張って』と言う。そうしたリーダーシップがある一方で、頭ごなしに練習法を強制してくるような先輩は遠ざけていました」 落合の猛打に引っ張られたチームは、'76年の都市対抗南関東2次予選で快進撃。劣勢の試合が雨天ノーゲームになるという幸運も手伝い、落合の3ラン本塁打などで日産自動車を倒し、第1代表を勝ち取る。そして、本大会初出場で記念すべき1勝を挙げると、野球部員は終日勤務から午前勤務となり、練習時間も十分に確保される。22歳で4番ファーストの落合も、プロ球団のスカウトから熱い視線を注がれるようになる。 「この頃から、プロになることも意識するようになった」 そう落合は回想するが、'76、'77年と候補に挙げられるもドラフト指名はなし。簡単にプロ入りはできないと感じ、現役引退後も定年まで東芝で勤めようと考えていた。
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