落合博満「これが、俺を育ててくれた東芝府中だよ」金欠時は炒飯を白飯に…知られざる社会人時代のリアル「定年まで東芝で勤めようと考えていた」
金欠時は炒飯が白飯に…落合が過ごした“東芝での日常”
練習後は、寮の部屋で飲み会か麻雀をしながら野球談議に花を咲かせる。その際、毎日のように近隣の『伸楽』という町中華から夕食の出前を取った。一番人気はラーメンと炒飯のセットだったが、財布の中身が寂しくなってくると炒飯は白飯になる。 「それでも足りなくなると、ツケでお願いしたりして……。落合も私も、考えながらやりくりしていました」 そんな中で松尾の記憶に強く残っているのは、落合が社会人として自立していく姿だ。ある日、松尾と落合が雑談をしていると、「経済力とは」という話題になった。落合は「どれだけ貯えがあるかではなく、持ち合わせを上手くやりくりできる力じゃないか」と言ったという。のちに落合は、幸せな生活を「ゆとりのある貧乏」と表現したが、そうした考え方は東芝府中時代に、グラウンドではなく職場で育まれたようだ。 '78年、日本代表に選出され、国際大会でも活躍した落合は、ついにドラフト3位でロッテへ入団し、三冠王3度の大打者へ駆け上がる。「若い頃はONが引退したらプロ野球は終わると思っていたけど、そこには自分が立っていた」と自負し、技術のみならず年俸など条件面でも球界の牽引役になったのは、組織(チーム)で最高の成果を上げるために自分は何をすべきか、そのノウハウを社会人の5年間で学び取ったからだ。 また、20年間の現役生活を終えたあと、落合は和歌山県太地町の落合博満野球記念館を拠点に「社会人のクラブチームを設立してもいいかもね」と語ったことがある。何らかの理由で高校、大学でのプレーを断念した選手に、再びチャンスを与えられる環境を作りたかったのではないか。それほど、落合にとって社会人野球は人生の救世主のような存在だったのだろう。 <続く>
(「Sports Graphic Number More」横尾弘一 = 文)
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