ル・マン、スーパーGTなど日産のモータースポーツを支えたニスモが40周年 その歴史と戦績を紐解く
1984年9月17日に産声を上げる
NISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)が産声を上げて、今年で40年を迎えた。それにともない、創立記念日である9月17日に日産グローバル本社ギャラリーで記念レセプションが開催された。 【写真60枚】日産のモータースポーツを支えてきたニスモが今年で40周年を迎えた。40年の間に活躍したレーシングカーや市場に送り込まれたコンプリートカー、さらにそれを記念して行われた記念レセプションの模様の詳細画像をチェック ◆近藤真彦氏や豊田章男氏も祝う 会場には、日産の社長兼最高経営責任者である内田誠氏や、現在ニスモ・ブランドを統括する日産モータースポーツ&カスタマイズ社の社長兼最高経営責任者の片桐隆夫氏のほか、長谷見正弘氏や星野一義氏、さらには近藤真彦氏などニスモで活躍した往年の名選手をはじめ、ニスモに所属していたレーシング・ドライバーやレース関係者が来場。さらに、トヨタ自動車の会長であるとしてではなくスーパー耐久レースを運営するSTMO(スーパー耐久未来機構)の理事として来席した豊田章男氏の姿も見られた。レセプションでは、内田氏や片桐氏のほか、内田氏と対談するカタチで豊田氏も登壇。さらに、後半に行われた長谷見氏、星野氏、近藤氏に、現役のレーサーとEフォーミュラの開発担当者を加えたニスモ・レース関係者によるトークショーでは、昔話に花が咲くなど、40年の節目を祝うに相応しい盛り上がりをみせた。 ◆我が国初の本格的自動車レースに参戦 そもそも日産は、1936年6月7日に多摩川スピードウェイで開催された我が国初の本格的自動車レース『第1回全日本自動車競争大会』にオオタ自動車とともに初めてワークス・チームを送り込んだ国産メーカーである。 残念ながらそのレースでは惜敗に終わったが、当時の日産の社長だった鮎川義介社長の「生産ラインを止めるのも辞さず」という指示のもと、わずか4ヶ月で一部にセミモノコック構造を用いた当時としては画期的なシャシーにDOHCスーパーチャージャー・エンジンを搭載した「NL-75」を開発。300人の従業員からなる大応援団まで仕立てた10月25日の第2回秋季自動車競争大会では、見事に雪辱を果たしてみせた。 思えば、日産のレース活動は強大なライバルに挑み、技術で打ち勝つ歴史であったといえるだろう。 ◆オーストラリア1周ラリーで優勝 そこに訪れた大きな転機が1966年のプリンス自動車との合併だ。 これにより日産のレース部門とプリンスのレース部門も合併し、追浜研究所内の特殊車両開発部に統一された。しかしながらラリーを行う第1実験課は追浜、レースを行う第2実験課は元プリンスの村山工場を拠点と、事実上日産派、プリンス派に別れる2部体制になっていた。 その第1実験課を率いていたのが、1948年に日産に入社し、1959年にダットサン210“富士山号”でオーストラリア1周ラリーに出場、総合24位、1000ccクラス1位を獲得し、日本車、日本人として初めて国際格式のレースで優勝した経験を持つ難波靖治氏だった。 ◆難波靖治氏が立ち上げる しかし、第一次石油ショックで事実上ワークス・チームは解散。難波氏はその後、市販車の開発部門に移り、フェラレディZの開発主管を務めていたが、1983年に定年退職。翌年、日産でレース活動を行っていた追浜の特殊車両実験課(追浜ワークス)と、2軍というべき大森の宣伝三課大森分室(大森ワークス)を統合したニスモを立ち上げ初代社長に就任した。 その活動内容に掲げたのは以下の5つ。 1:国内外のレース・ラリーへの参加。 2:プライベートチーム等のバックアップなどの支援。 3:レーシングスクールの開催などのユーザーサービス活動。 4:スポーツパーツの開発、販売。 5:モータースポーツ情報などの提供、だ。 ◆早くも成果が表れる そして1985年からグループC、全日本ラリーで本格的なワークス活動を再開。86年にはル・マン24時間への挑戦もスタートする一方で、85年からマーチ・カップ、89年からザウルス・カップを立ち上げるなど、モータースポーツの底辺を支える活動も積極的に行うようになる。 その成果はすぐに現れ、1985年のWECジャパンでは日本車、日本人初優勝を記録。同年の全日本ラリー選手権でもシリーズ・タイトルを獲得しているほか、グループAの全日本ツーリングカー選手権では、86年、89年、90~93年、グループCの全日本耐久選手権では90年~92年のシリーズ・チャンピオンに輝いている。 ◆デイトナ24時間で総合優勝 さらに1990年のル・マン24時間では日本車として初のポールポジションを獲得したほか、R32型スカイラインGT-Rで90年のマカオ・ギア・レース、91年のスパ24時間で優勝。また92年のデイトナ24時間ではR91CPで日本車、日本人初の総合優勝も飾るなど、内外で圧倒的な強さを見せつけた。 その傾向はグループCやグループAの時代が終わってからも変わらず、全日本GT選手権ではGT1/GT500クラスで1993年、98年、2003年、04年にドライバーズとチームのWタイトル、1999年と2001年にチーム・タイトルを獲得。スーパーGTに移行後もGT500で2011年、12年、14年、15年、22年にWタイトル、05年にチーム・タイトル、08年にドライバーズ・タイトルを獲得。そのほか内外の様々なカテゴリーの第1線で活躍し続けている。 ◆特別展示を実施中 現在、日産グローバル本社ギャラリーでは、ニスモ40周年を記念した特別展示を10月15日まで実施。デイトナ24時間の優勝マシンである日産R91CPをはじめ、ニスモのレーシングカーやコンプリートカーが展示されている。さらに、ニスモ公式サイト内に40周年の軌跡を紹介する特別コンテンツを掲載中だ。 また、今年も12月1日に富士スピードウェイで行われるニスモ・ファン垂涎のイベント、「ニスモ・フェスティバル」はニスモ・ブランド40周年をテーマに掲げ、開催される。 文=藤原よしお (ENGINE WEBオリジナル)
藤原よしお
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