最後の晩餐は牛丼で
劇場を出て六本木交差点を歩いていたところを人とぶつかった。手から「に志かわ」の紙袋が落ちる。考えごとをしながら歩くのはいけない。 「悪りぃ」 「こちらこそ」 拾った紙袋を差し出してくれたのは、あの男だった。目と目が合う。 この男にも全身に走るものがあったのだろう。視線を外そうとしなかった。言葉を交わさずとも、わかる者同士の時間があった。あいにく目の前は交番だった。互いにその場を離れる。おそらくあの男も振り返ることはしなかっただろう。数秒の逢瀬だった。 食パンをカットすると、偽造パスポートと旅客機の搭乗券が入っていた。しかもあした。聞いてないよー。 パンごと棄ててやろうかと考えた。だけどそんなことをしたら連中は地上の果てまで追いかけてくる。それでもいいじゃないか。さっき観た映画のふたりのように、世界の片隅でささやかな悦びを分け合って生きていけるなら。いま自分がそうしたい相手は誰だ。もちろんREIくんだ。彼を連れてどこか遠くの地へ。原宿に店を出す夢は? もうひとりの自分が問いかける。それより愛だろ。また別の自分が囁く。REIくんREIくんREIくん。呪文のように繰り返す。そうしてあの男の顔を打ち消そうとした。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/稲田一生 編集/森本 泉(Web LEON)