就任1年目で甲子園ボウル制覇 立命館大学・高橋健太郎監督が振り返る大学時代、すべては「入学式事件」から始まった
監督業に生きている関西電力でのキャリア
キャプテンになった一方で、3回生の秋からたびたび脳振盪(のうしんとう)になってました。日本に脳振盪対策のレボリューションというヘルメットが入ってきたとき、たぶん最初に着けたのが僕なんです。CTとかMRIを撮っても脳が腫れてました。当時はあんまりプロトコルがしっかりしてなかったんですよね。振り返れば自業自得なんです。ショルダーの中のパッドを切りまくって軽くしてたし、ヘルメットもワンサイズ小さくして、内側をペコペコにしてたんです。ちょっとでも顔ちっちゃく見えてカッコいいかなと思って(笑)。それで脳振盪の癖がついちゃって、パンチドランカーみたいになってたんですよね。 3回生の京大戦のときに医者から3週間運動停止って言われたんですよ。4回生のときはもうあんまりヒットしないように試合も早め早めに代わるっていう感じで。甲子園ボウルも多分第1クオーターで下がってて。試合自体をフルでやったのはライスボウルだけやと思います。それぐらいケアしてたっていうのはあります。ずっとだましだまし、医者にも定期的に見てもらいながらやってたんですけど、やっぱり脳が腫れてたってこともあるので、社会人でやるなら「1年ぐらいはやらない期間を挟め」みたいなことは言われたんです。 ライスボウルで2年続けて勝たせてもらって卒業して、2004年に関西電力に入りました。営業所に3年いて、研修センターで教育計画とかを立てるような仕事を1年やりまして、そこから本社の人事で労務の仕事をやって。組合交渉とか労働時間削減とか、当時は働き方改革の走りでした。そこからダイバーシティ推進グループの立ち上げメンバーに入って、1年半立ち上げと軌道に乗るまで関わりました。そのあとは採用の部署に異動して3年。次にエル・スエヒロフードサービスっていう食堂運営会社に出向しまして。900人ぐらいの会社やったんですけど、ナンバー3ぐらいだったんです。社長、 専務がおって、経営統括部長っていう初めての役職やったんですけど、そこで3年半やって、赤字の会社だったんですけど黒字になって、売却するようなところまで話が決まって、関電に戻りました。そこから広報の仕事を4年ぐらいやって、社内広報の仕事をやったりとかCMを作ったりとか。提供番組の「住人十色」の出稿管理とか媒体管理をやって、退職するときはメディア広報課長でした。 関電のキャリアは監督業にめちゃめちゃ生きてまして、学生たちの就職サポートはめっちゃ大事ですし、ダイバーシティでの経験とか労務では組合員の気持ちを考えてお金の提案をしていくという仕事だったので、相手の立場に立って考えるとかこう、性差の違いをどう捉えてやっていくかとか。違いを組み合わせて、新しいものを生み出していくとか。そういうのはパンサーズの組織経営をしていく中ですごく生きてるなと思っています。 入社4年目ぐらいまでは関倉でコーチをやってて、そこから「もうアメフトできるやろ」と思って吹田マーヴィーズとかブラックイーグルスで選手を3年やったんです。2012年から20年までパナでコーチをさせてもらいました。パンサーズの監督の話をいただいたのは、確か去年の秋のシーズンの前だったと思います。正直ビックリしましたね。藤田さんになってまだ2年目やったっていうのもありますし。僕がOB会なんかから言われたのは「ちょっと腰を据えてチーム改革をしていかなアカンのちゃうかなと思ってて、パワフルな人材で社会人でもフットボールの経験があって、というので考えていったときに、高橋がええんちゃうかという話になったからやってくれへんか」と。