伊藤比呂美「渡世人、寄る年波に気づく」
やがて咳が残った。風邪だったようだ。そして咳もなくなった頃、大丈夫かなと思いながら、おそるおそる上京した。今度はオンラインでは済まない企画ばかりだった。するとその頃、いったん退院していた枝元がまた入院してしまった。あたしは旅のはじめとまったく同じに、ヌシのいない枝元の家に泊まり、東京を渡り歩いた。朗読、講演、声を使う仕事だから、ときどき咳き込んだ。 東京最後の日に、枝元に会いに行った。前の病院は見舞いがダメだったが、今度の入院先は見舞いができる。ずっと会ってなかったから、やっぱり顔が見たかった。 病院は東京のど真ん中の大きな橋の向こうにある。交通の便がいいようで悪い。何々駅からタクシーかなと検索していたら、とある駅から都営バスが出ているのを見つけた。その駅に行くと、駅前のバス停から赤いバスが走り出したところで、目当ての都営バスじゃなかったが、行き先表示には枝元のいる病院の名前が書かれてあった。次のバスまで二十分。待とうか待つまいか。橋を徒歩で渡るのも悪くないと考えた。曇って暑くてムシムシする日だった。川の水がぎらぎらして見えるだろう、橋桁はどんなふうだろう。 歩きはじめたら花屋があった。ふと思いついて、そこに入って花を選んだ。ふさふさした穂のついたイネ科を二本に、赤い実のひとつついたブラックベリーを一本。コップに差せるように短く切って、茶色の紙で包んでもらって。それを手に持って外に出たら、バスの時間まであと五分。それでバス停に戻って待ったが、バスがなかなか来なかったのだ。バスってのはそういうものだ。 バス停にはもう一人、同年配の女が、今か今かと待っていた。道の向こうにやっと目当ての赤いバスが見えたとき、来ましたねと顔を見合わせて話しはじめた。彼女が「区のバスだから六十歳以上の区民はただなんですよ」とカードを見せてくれ、あたしは「区民じゃないから、六十歳以上だけど払います」と言って二人でなごやかに笑った。病院の前で「お気をつけて」と言い合って、あたしだけ降りた。なかなか終わらない旅の終わりがもうすぐのような気がした。枝元の顔を見ればちゃんと旅が終わるような気がした。
伊藤比呂美