「人間の抱える洞(うつお)を照らしだす傑作」鴻巣友季子が絶賛 獣医師として働く赤松りかこのデビュー作(レビュー)
1977年東京生まれ。獣医大学を卒業後、臨床獣医師として働く赤松りかこさんは、2023年に「シャーマンと爆弾男」で第55回新潮新人賞を受賞し作家としてデビューした。 受賞作に最新作「グレイスは死んだのか」を加え、2024年7月に出版されたのが『グレイスは死んだのか』(新潮社)だ。 「人と獣と精霊の境を越える、瞠目の小説家デビュー!」と銘打たれた新星の圧倒的筆力とは? 翻訳家で文芸評論家の鴻巣友季子さんが「たちまち魅せられた」「目を瞠り、真の才能を確信した」という本作の魅力を語った書評を紹介する。
鴻巣友季子・評「人間の抱える洞(うつお)を照らしだす傑作」
数年前、ある文学賞の選考で、運動会のひと幕を鮮鋭な感覚で綴ったエッセイを読んだ。それは同賞の随筆部門で圧倒的一位を獲得し、受賞者は授賞式で、いずれ小説を書きたいと思っている、と控えめに述べた。 それが、2023年に「シャーマンと爆弾男」(本書併録)で新潮新人賞を受けて文壇に登場する赤松りかこだった。筆名が違ったのでエッセイの筆者だと気づかなかったが、同作にはたちまち魅せられた。南米の聖なるシャーマン神話と、介護ホームに暮らす母と路上生活者の物語を、鋭くかつ滑稽みのある頓降法(ベーソス)を利かせて書いている所が非常に面白かった。 この第一作から驚くほど間をおかず発表された次作が「グレイスは死んだのか」だ。私はデビュー作からのさらなる伸長ぶりに目を瞠り、真の才能を確信したのだった。 赤松氏があのエッセイの筆者だと編集部から知らされたのは、その後のことだ。一貫して彼女の文章に惹かれてきたことに、われながら納得の感があった。 さて、「グレイスは死んだのか」は、暴力を恃んで馬や犬を調教してきたある男の語りを核としている。「調教はその枠に、何の感情も持たず、自分から入っていくようにすること」「躾は誉める、叱るのバランスが必要だが、調教は時に応じた痛みを与えることがすべて、そうじゃないすか? いや、そうなんす」と嘯く、どこか狂気を感じさせる人物だ。 いま彼の飼い犬グレイスは原因不明のまま死にかけている。男はかつてこの犬と深山に踏み入り、遭難して死にかけた体験を獣医に語りだす。過酷なサバイバルのなかで、調教の軛は次第にほどけ、人間と犬の主従関係が逆転しはじめる。本能のままに鹿の屍に食らいつくグレイスに、男は猟銃を向けて……。 このナラティブにも、作者の才気が輝きでている。男の一人称独白の形式をとらず、その話を聴く女性獣医の「再話」として語っているのだ。つまり、三人称文体に変換されているのだが、この語りの差異にこそ作者の文学性が煥発する。 元々の男の語り口は、アボリジニが編む「ひょうたん型のカゴ」を思わせたという。その独白を引きとった獣医の中で語りが膨張し、ときに限界を超えて歪みだすと、視点がうっすらと破れて誰とも知れない目を引きこんだりする。どこからが獣医の夢想なのか。緻密に構築された語りだ。 * 赤松りかこの小説を一読すれば、そこに大江健三郎を読みこんできた轍が、ときにくっきりと見出されるだろう。犬といえば、大江作品にはつきものと言ってもいい。「ジステンパーの犬さながらまことに憐れっぽくみっともない」とか「獲物を追いつめた犬の昂奮をあらわして」などと喩えに盛んに使われるだけではない。山犬狩りへの言及で幕を開ける「飼育」から、犬の死殺作業を描く「奇妙な仕事」、親友が自殺した後主人公がまっくろの犬と庭の穴にこもる『万延元年のフットボール』(彼の弟の中にも犬の魂が入りこむ)、巨大な「壊す人」が縮んだのちに「犬ほどの大きさのもの」に再生する『同時代ゲーム』……。 犬は、精神の昏い領域を表象する何かだろう。 「グレイスは死んだのか」の犬とは何か? じつは私のなかで本作と鮮烈に重なってくるのは、詩人T・S・エリオットが代表作「虚ろな人びと」に一節を引いたジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』なのである。語り手はコンゴ河を遡行し密林の奥へ分け入るうち、そこに人間の抱えるhollow(空虚)を見出す。 「グレイスは死んだのか」で、男がいったん語り終えたとき、獣医はこんな印象を抱いた。 その小さな体を満たしていた暴力への信仰に近い執着は、今やごっそり抜け落ちていた。深山でかれの洞(ほら)は何によって満たされていたのだろう。 男は深山での屈辱的な経験とグレイスの実質的な死を経て、空っぽになっていたのではないか。『闇の奥』では、象牙王国の暴君クルツがその寓居の周りを生首で囲みながら、自らの内に巨大な空虚を抱えていたことを語り手は認識する。コンラッドはその対比を、文明人の言動の薄っぺらさと、原始林の猛々しい濃緑の不透視性、つまりは「空なるものと密なるもの」の対照によって示したのだった。 「グレイスは死んだのか」の犬は、密な何かだったのではないか。対照的に、山奥の鬱蒼とした樹林の中に時折現れる「うろ」や「洞」といったhollowなものが印象的だ。男がつぶやいた「こんな無残なことはない、こんな無残なことはない」という連呼の言葉は、いま私の中でクルツの今わの際の言葉、「なんと恐ろしい! なんと恐ろしい!」と響きあっている。 獣と人、屈服と交感のはてに、一体なにが死んだのか? 人間の抱える洞(うつお)を暗く照らしだす紛れもない傑作だ。 [レビュアー]鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト) 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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