<戦後80年>私たちは何を学ぶべきか―日本の戦争と戦後を振り返る記事6選
山本五十六が軍縮会議への関心を失った海軍の人事山本五十六:その実像への接近の試み(第1回)(2021年12月29日)
太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官、また三国同盟締結交渉時の海軍次官として知られている山本五十六の名が、海軍部外ではじめて高まったのはいつであろうか。昭和初期の新聞や雑誌の記事を参照すると、それは1934年に開催された第二次ロンドン条約予備交渉(予備会商)の海軍主席代表に任命され、米英代表と3カ月にわたる交渉を行ったときから、と考えられる。 この予備交渉が開催されたのは、30年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の有効期限が5年間であり、条約が失効を迎える期日の1年前に、条約国が以後の軍縮のあり方について討議することが定められていたことによる。この交渉において、日本側全権は米国・英国が唱えた比率主義(ワシントン・ロンドン軍縮会議条約時に日英米の海軍力を、艦艇のトン数の比率によって規定したもの)に反対して、「列国共通の兵力最高限度を決定し、その範囲内で不脅威不侵略の兵力量を協定すること」などを主張した。 この当時、山本については「英米代表を向ふに廻はし、堂々三ケ月余りの論陣を張り、比率主義廃止、パリティ要求の為めに戦って重任を半ば果し」(『文藝春秋』1935年3月号)と日本国内一般で評価されたものの、彼の会議における主張は米英両国代表の容認を得られず、交渉は行き詰まって12月20日に休会となり、その後再開されることなく山本らは翌年、1月下旬に帰国の途に就いた。 この間に日本政府が、22年に締結されたワシントン軍縮条約の廃棄通告を12月3日の臨時閣議で正式に決定し、29日に駐米大使を通じて米国にその通告がなされ、36年の末をもって同条約が失効することとなった。 【つづきはこちら】 山本五十六が軍縮会議への関心を失った海軍の人事 山本五十六:その実像への接近の試み(第1回)
【世界が注目】「日本のいちばん長い日」「肉弾」…“戦中派”映画監督が描き続けた戦争の生と死、ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』(2024年12月19日)
ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』(12月7日)は、戦争による生と死を描き続けた、奇才あるいは鬼才と呼ばれたひとりの監督に光をあてた、上質なドキュメンタリーである。日本映画を代表する監督は、小津安二郎や成瀬巳喜男らばかりではない。世界はいま岡本喜八を発見しつつある。 岡本喜八作品は、4Kデジタルリマスター版の制作も進められ、欧米などでの販売を前提としている。生涯で39本の映画を撮影した喜八は、そのうち半分が戦争にからんだ映画である、と語っている。 米軍による日本本土に対する空襲が本格化した1945(昭和20)年の4月、のちに映画界の奇才あるいは鬼才と呼ばれた、岡本喜八は旧豊橋陸軍予備士官学校に入校した。岡本ら先遣隊がこの月末に予備士官学校に到着した直後、多数を失う米軍の攻撃を受けた。 喜八は偶然にも死を免れた。しかし、周囲には片腕、片足を失った兵士や頸動脈から出血している兵士らで阿鼻叫喚の地獄絵となった。 「戦争体験としてはまことにチャチだった。しかし、青春体験としては、それなりにまことに強烈だった。まこと生死は紙一重」と、喜八はエッセイにその時の衝撃を綴っている。 【つづきはこちら】 【世界が注目】「日本のいちばん長い日」「肉弾」…“戦中派”映画監督が描き続けた戦争の生と死、ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』