意外とわからない「発達障害」と「個人差」の違い…「発達障害の子ども」も「発達」する
個人差と発達障害の違い
ここにあげたおのおのの発達の側面については、いわゆる「個人差」がある。どこまでが問題として取り上げるべきで、どこまでが個人差のレベルなのかということについては、先ほどすでに触れた。その苦手さが、生活の上で不具合を生じているのであるとすれば、発達障害として、診断や治療また個別の教育(特別支援教育)の対象となるのである。 学校の先生からしばしば聞くのは、クラスの中でサポートが必要な子どもに受診を勧めると「うちの子を障害児にするのか」と激怒する親が少なくないという苦情であるが、これは親の側の思いこみによる誤解に基づいていると言わざるを得ない。 要するに、本人の責任ではないことによって(本人が怠けたり、わざと反抗したりしているのではなく、また親の躾の不備によるものでもなくて)学校生活に支障が起きていることが明らかとなったのに、この本人にとって不幸な状態を、医療機関など専門家の助けを借りてなんとか解決しようという申し出を、発達障害という名前に由来する偏見から、拒絶をしてしまおうとしているのである。親が怒ったところで、子どもの持つ問題が解決するわけではまったくない。学校教育の選択に関しては後にまた詳しく述べよう。 偏見は、誤った知識から生じる。この本は、発達障害に対する誤った知識を減らし、どのようにすれば発達障害を抱える子どもたちがより幸福に過ごすことができるようになるのか、正しい知識の紹介をする目的で書かれている。 さらにいわゆる専門家のサイドにも実は誤診例が存在する。従来、発達障害を非常に限定的に捉えていたために、比較的軽微なものに関しては、後述する子どもの高い代償性もあって、その存在に気づかれずに青年期、あるいは成人期を迎えることも生じてきた。特に知的障害を伴わない軽度発達障害は、軽微とは言いがたいさまざまな適応上の問題を生じていても、発達障害の存在に気づかれずに経過する場合がある。 従来の精神科臨床では、青年期、成人期の患者の診療に際して、乳児期、幼児期の発達状況を丹念に聴取するという習慣を持たなかったために、統合失調症をはじめとするさまざまな精神科疾患において発達障害の基盤を持つことに気づかれずに診断がなされ、治療が行われていた例は少なくない。この問題は、今後大きな議論になる可能性がある。