【追悼】小林邦昭さん 「虎ハンター」が破ったマスクは378万円 初代タイガーマスクとの伝説の攻防秘話 封筒にカミソリも
「あんなことばかりしていると、命がないからね!」
大阪での最初のマスク剥ぎを終え、その週の日曜日は東京でのオフに。小林は渋谷に出てみた。すると、人々の視線を感じる。立ち止まって見つめる人が何人もいる。明らかにタイガー戦が2日前、放映された効果だった。 “虎ハンター”という異名ももらい、少しすると、新日本プロレスには小林宛ての手紙がドッサリ。早速、そのうちの一通を開けたその時だ。 「痛っ!」小林自身の叫びと同時に、右手の親指の付け根から血がドクドクと流れ落ちていた。カミソリの刃が入っていたのだ。同様の封筒はその後も続いた。差出人は不明で、消印は全国津々浦々だった。 “虎ハンター”の出現。それは稀代のスーパーヒーローの怨敵としての、全国的なヒール選手誕生の瞬間でもあったのだ。 血文字で「死ね」と書かれた手紙もあれば、封を開けると両刃のカミソリが20枚以上落ちてきたこともあった。そこで小林はまず、手紙を灯りに透かし、下の方から開けることを覚えた。差出人の書いてない手紙は、捨てざるをえなかった。街中で可愛らしい女子高生が駆け寄って来たかと思うと、「アンタ! あんなことばかりしてると、命がないからね!」と凄まれたこともあったという。 だが、小林は、決して攻め手を緩めなかった。カメラの正面でタイガーの覆面をスッポリと剥ぎ、一瞬素顔を露わにしたこともあれば、剥ぎ取ったマスクを遠く放り投げてしまったこともある。先述したテレビ番組の取材で、改めてこの時期の気持ちについて小林に問うと、こう答えた。 「ここでひるんだら俺も終わってしまうし、タイガーの熱さにも水を差すことになるから」 だが、戦いは突然終わる。小林の元に、素顔の佐山サトルが人目につかぬよう尋ねて来たのは、1983年7月のことだった。 「全てを白紙に戻したいんです。自由になって、休みたいんです」 小林へのその言葉通り、タイガーは翌月、電撃引退。全国的な人気者の疲れはピークに達していたのだ。実を言うと、2人はもともと、大の親友同士だった。