「財界の鞍馬天狗」と呼ばれた中山素平、多くの企業救済や再編をけん引したタフネゴシエーターぶり
戦後の日本が復興する上で、血液たる資金を提供した銀行の果たした役割は大きい。中でも日本興業銀行は、その名の通り日本に「業」を「興」し続けてきた。その興銀にあって「ミスター」と呼ばれたのが中山素平氏(1906年─2005年)である。日本の高度成長を陰で支えた裏方だった。 【写真】中山氏の働きかけにより、山一證券への特別融資の発動を発表した田中角栄蔵相(1965年5月) ■ 年を重ねても財界で影響力を持ち続けた「そっぺいさん」 「中山素平」と書いて「なかやまそへい」と読む。しかし誰もが「そへい」ではなく「そっぺい」と読んだ。もちろん面と向かって「そっぺい」と呼ぶ人は親しい人に限られた。しかし本人がいない場所で話題にする時は、ほぼ全員が「なかやまさん」でも「そへいさん」でもなく「そっぺいさん」だった。そして中山氏にはもう一つの名前があった。「財界の鞍馬天狗」である。 中山氏は1906(明治39)年生まれ。一橋大学を卒業後、日本興業銀行(その後、富士銀行、第一勧業銀行と経営統合し、みずほフィナンシャルグループ)に入行。頭取を7年、会長を2年務めた。 筆者が経済誌の世界に入ったのは36年前のこと。中山氏が頭取を退いてから20年がたっており、当時の肩書は興銀の特別顧問。銀行のみならずどんな企業であっても、創業者でもないかぎり社長を降りて20年もたてば影響力はなくなるもの。ところが中山氏は違った。筆者もいろんな場面でその名を耳にした。 例えばWOWOW中興の祖である佐久間曻二氏の場合もそうだった。
日本初の民間衛星放送のWOWOWは1991年に開局したが、経団連主導の寄り合い所帯であることに加え、社長が郵政省(現総務省)出身の「お役人」だったこともあり、大赤字に陥っていた。佐久間氏はそこに再建役として送り込まれて累損を一掃、上場まで果たした。 佐久間氏は松下電器産業(現パナソニックホールディングス)で営業担当副社長だったが、興銀も関与した「尾上縫事件」の責任を問われ参与に降格し、不遇をかこっていた。そこから新天地で花を咲かせた。 筆者は佐久間氏がWOWOWに転じる直前にインタビューする機会を得たが、その時佐久間氏は「そっぺいさんが推してくれた」と素直に答えている。中山氏はこの時すでに87歳だったが、松下電器の社外取締役を務めていた。このように、年を重ねても隠然たる影響力を持ち続けた。 普通なら老害と言われてもおかしくない。しかし中山氏が絡む案件で老害という言葉を聞いたことはなかった。その理由を明かす前に、戦後の日本経済における興銀の位置付けを説明する必要がある。 ■ 日本の戦後復興をサポートしてきた興銀マンのプライド 現在、日本の銀行には、三菱UFJ、三井住友、みずほの3メガバンクと準メガのりそな、SBI新生、あおぞらがあり、全国には地方銀行がある。さらには三井住友信託や三菱UFJ信託などの信託銀行、そして楽天銀行やセブン銀行など、2000年以降に設立された新規参入組という構図だ。 しかし1990年代後半までは違った。興銀、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の長信銀、富士銀行や住友銀行などの都市銀行があり、各地には地方銀行(相互銀行が前身の第二地銀を含む)と信託銀行が、法で定められたそれぞれのテリトリーで活動していた。 例えば信託銀行以外は信託業務ができず(大和銀行を除く)、地銀は地域をまたいでの営業ができなかった。そして新規参入の門は基本的に閉ざされていたため、銀行の数はほとんど変わらなかった(三菱+東京、三井+太陽神戸のような同じカテゴリー内での合併はあった)。 その中にあって、長信銀は、日本の産業振興を目的に設立された特殊な銀行だった。他の銀行と違い預金ではなく債券を発行して資金を集め、それを企業に融資した。とりわけ興銀は1900年に富国強兵策に沿って重工業への融資を目的に誕生した。終戦後、GHQから解散を迫られるも、中山氏らの根回しと働きかけもあって存続を許され、日本の戦後復興をサポートしてきた。 それだけに興銀マンのプライドは高く、都市銀行などいわゆる商業銀行とは違うという意識を常に持ち続けていた。そして実際、興銀には優秀な人材が集まっており、産業界に成長のための血液(資金)を送り続けた。 このエリートぞろいの興銀にあって、中山氏は「ミスター興銀」と呼ばれるほどの活躍を見せる。