「財界の鞍馬天狗」と呼ばれた中山素平、多くの企業救済や再編をけん引したタフネゴシエーターぶり
■ 山一證券の救済、富士・八幡製鉄の合併に奔走 戦後の復興期、企業は雨後のたけのこのように誕生した。しかし1950年代後半になると、乱立の弊害が出るようになる。これを整理し企業の国際競争力を強めるため、海運、製鉄、自動車など、多くの業界で合従連衡が行われた。そしてその大半に興銀が絡んでおり、中山氏は合併する企業の間に入り調整役を務めた。 その神出鬼没、八面六臂の活躍に、ついたあだ名が「財界の鞍馬天狗」だった。ちなみに鞍馬天狗とは大仏次郎の小説に出てくる、幕末を舞台に活躍する勤王志士で、小説のみならず映画も大ヒットした。 では中山氏はどのような実績を残したのか。代表的な2例を挙げる。 一つは1965年。前年の東京五輪の反動で日本は不況に突入。大手証券の一角、山一證券が経営危機に陥った。支援のために日銀氷川寮(東京・赤坂)に中山氏や幹事銀行の頭取や日銀副総裁、大蔵次官、そして田中角栄蔵相などが集結した。 当時中山氏は興銀頭取。興銀の融資額は都銀より少なかったが、この場を仕切ったのは中山氏で、田中蔵相を巻き込み、日銀による無担保・無制限の融資(日銀特融)を引き出した。 もう一つは1970年の富士製鉄・八幡製鉄の合併だ(新日鉄、現日本製鉄)。もともと両社は一つの会社だった(旧日本製鉄)が、戦後、GHQの指令により分割されていた。しかし国際競争力を高めるためにも元に戻るべき、との機運が高まり、通産省やメインバンクである興銀もこれを後押しした。 ところが公正取引委員会がストップをかける。今の公取は、国際的なシェアも考慮して独占禁止法に抵触するか判断を下すが、当時の公取にとっては国内シェアが全て。富士と八幡が合併すると、シェアは35%となる。公取の基準は30%と言われており、これを超える。しかもレール用鉄など一部の製品では8割以上のシェアとなる。そのため公取にとってはのめない合併だった。 この公取の抵抗は非常に強く、一時は富士・八幡の首脳も婚約解消やむなしと考えるようになった。これを押しとどめたのが中山氏だった。 両首脳に面談して合併を諦めないよう叱咤激励する。そしてさらには合併に強硬に反対していた公取委員長と、推進派だった大平正芳通産相(後に首相)の面談をセッティング。もちろんその前に、高シェア部門の他社への一部譲渡などの外堀を埋めて話し合いを進め、ついに委員長の首を縦に振らせた。 両社の合併が表面化したのは1968年4月、公取が「合併をしないこと」との勧告書を出したのが69年5月、そして合併の同意書を出したのが69年10月、そして合併が70年3月31日。実に2年間の長い闘いだった。 この合併が成就したのは、自ら「しつっこい」と自認する中山氏の存在があったからだ。