なぜ政治や社会運動に冷笑的な態度を取ったのか―富永 京子『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史――サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体』永江 朗による書評
◆懐古しないタイムマシンに乗ってみた 書名や表紙のデザインから、サブカルチャー懐古的な内容を予想する人がいるかもしれないが、少し違う。若者の政治関心について、1970~80年代の雑誌を例に研究する学術論文である。 日本人は、とりわけ若者は、政治参加や社会運動に消極的だといわれる。その原因について、経済的に豊かになったことや、内ゲバ事件に象徴される新左翼運動にうんざりしたからと説明されることが多い。でも、ほんとうにそうか? というわけで、社会学者である著者は、当時の若者たちに影響力があった月刊誌『ビックリハウス』を例にじっくり調べた。同誌はパロディを中心にした投稿雑誌だ。 計量テキスト分析というその手法にたまげた。74年の創刊から85年の休刊までの10年分130冊の全ページをスキャナで読み取ってデータ化し、使われている言葉の頻度や関連性を調べた。巻末には頻出語の長いリストも。手間と金のかかる作業で、「おわりに」には作業と研究に協力した人びとの名前やこの研究が受けたさまざまな助成金が記されている。 『面白半分』や『話の特集』、『宝島』など、同時代の他の雑誌なども参照しつつ『ビックリハウス』とその読者たちの政治関心について見ていくそのプロセスはまるでタイムマシンのよう。ノスタルジーが目的の本ではないけれども、口絵も含めてやっぱり懐かしい。 さて、結論だけいうと、当時の若者たちが政治に無関心だったわけではないし、社会なんてどうでもいいと思っていたわけでもない。ではなぜ政治や社会運動に冷笑的な態度を取ったのか。それは、彼らが自主性や主体性を重んじ、多様性を尊重したからこそであり、ともすれば啓蒙や強制をともなう政治参加や社会運動を忌避したのだというのである。 うーむ。この結論に、ぼくは自分の腹の底を見透かされたような気持ちになった。『ビックリハウス』が創刊されたのはぼくが高校1年生の冬で、以来、投稿こそしなかったけれど毎号読んでいた。つまりこの本は他人事ではない。 思い返せば45年前、大学のサークル室でぼくらは「無思想、無秩序、無節操」などと叫び、「孤立を求めて、連帯を恐れる」と唱えていた。そこには戦前・戦中生まれの親世代に対する反発はもちろんのこと、面白そうなことを根こそぎ先取りしてしまった全共闘世代に対する嫉妬と憧れと嫌悪があったのだと思う。ねじくれているけれども、それもひとつの批評的態度であり政治的態度なのだとぼくは信じていた。いや、行動しないことの言い訳、正当化だったのかもしれないけれども。 あのころのぼくらは視野が狭かった。「みんなの正しさという古い建前、個人の本音という新しい正義」と題された第3部、とりわけ差別について書かれた部分を読むと、鉛の塊を飲み込んだような気分になる。差別するなという規範に反発するあまり、わざと差別的なことを書いたり、反差別運動を揶揄したりした。自分はやらなくても、そういう言説を「アブないネタだなあ」などと笑っていた。あのころのぼくには、差別に苦しむ人が見えていなかったのだ。振り返るとグロテスクだ。 全否定はできないけれど肯定もできない、恥多き時代だった。 [書き手] 永江 朗 フリーライター。 1958(昭和33)年、北海道生れ。法政大学文学部哲学科卒業。西武百貨店系洋書店勤務の後、『宝島』『別冊宝島』の編集に携わる。1993(平成5)年頃よりライター業に専念。「哲学からアダルトビデオまで」を標榜し、コラム、書評、インタビューなど幅広い分野で活躍中。著書に『そうだ、京都に住もう。』『「本が売れない」というけれど』『茶室がほしい。』『いい家は「細部」で決まる』(共著)などがある。 [書籍情報]『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史――サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体』 著者:富永 京子 / 出版社:晶文社 / 発売日:2024年07月25日 / ISBN:4794974361 毎日新聞 2024年9月7日掲載
永江 朗