古墳時代の土台は弥生時代だ! 前方後円墳出現前夜の「四隅突出型墳丘墓」とは?
「古墳時代」とは、日本の考古学上の時期区分で弥生時代と飛鳥時代の間に存在し、おおよそ3世紀半ばから7世紀頃とされている時代だ。その時代の幕開けの指標のひとつとして「前方後円墳の出現」が挙げられることがあるが、それ以前の“黎明期”にも古墳と判断される長方形墳が誕生している。今回は前方後円墳が登場する少し前の時代にスポットを当ててみたい。 ■壮大な古墳文化の礎を築いた弥生時代後期 弥生時代の墳丘墓から古墳への変化こそ重要な時代の画期であることは皆さんご承知だと思います。小規模な集落社会が徐々にまとまって中規模の邑国(ゆうこく)になり、そしていよいよ大規模な国造りを始める重要なプロセスの起点が、実は弥生時代にあります。 古墳時代の開始は「前方後円墳の出現」などを条件としていますが、実際には大阪府高槻市の安満宮山(あまみややま)古墳のように、3世紀半ばの長方形墳でも副葬品などの観点から「古墳時代に突入しているので古墳である」と判断される微妙なゾーンも存在します。 長方形墳といえば島根県の出雲周辺を西の極限として日本海側に広く分布する四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)を思い出します。 今回私は島根県の弥生遺跡の代表的なところを踏査して参りました。加茂岩倉(かもいわくら)遺跡・荒神谷(こうじんだに)遺跡・西谷墳丘墓群(にしだにふんきゅうぼぐん)・出雲大社周辺の大きく四か所です。それぞれに資料館や博物館が設置されていますので、そこの方々にお話も伺ってきました。 今回は西谷墳丘墓群を中心に取り上げます。ここには公園化された四隅突出型墳丘墓群に隣接する「弥生の森博物館」があって、1号墓から6号墓までを見学することができます。特に2号墓は墳丘が丁寧に整備されていて、なんと内部が展示施設になっています。また外見は石貼りも再現されていて迫力のある大型弥生王墓です。 そして博物館には出土物が丁寧に展示され、当時を再現するジオラマもわかりやすく設置されています。 これらを材料にして、推理と想像と妄想の世界を楽しむことにしましょう。 出土土器には朱が塗られ、埋葬施設にもふんだんに高価な朱が使われています。そして美しく青色に輝くガラス製の勾玉が2点、ほかにも首飾りや装飾品が豊富です。つまりこの西谷墳丘墓群に埋葬された弥生王家の力と富は強大だったといえるのです。 そのうえ出土土器は遠く北陸の越(こし)地方の物もありますし、奈良県纏向(まきむく)の箸墓からも出土している吉備の特殊器台が持ち込まれています。 古墳時代は大和王権の覇権展開と前方後円墳の広がりがリンクすると考えられますが、その前夜には出雲に強大で広範囲に影響力を持っていた弥生の王国があったと考えざるを得なくなります。 すでにお気づきの方も多いと思いますが、「出雲神話」の真実性を裏付けるかのような考古史料が、加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡で発見されています。貴重な『出雲国風土記』の神話は壮大な物語でありながら、この発見は神話の根底に真実があることも感じさせます。 もちろんこんな発想は昔からあって、神話と史実を合成しようとする研究はいくらでもあります。『記・紀』は邪馬台国や卑弥呼については本文で一切触れませんが、出雲国についてはしっかりと記載していますし、触れないわけにはいかない事情もあったのでしょう。 それは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・国譲り・国引き」神話が重用な履歴だったからでしょうか。すぐれた先人の研究にはもちろん及びませんが、実際に現地を踏査して感じた弥生の王国について、これから考えていきたいと思っています。
柏木 宏之