発達障害を映画で描くなら「感動」か? 「リアリティー」か? 社会的理解を深めるために重視すべきは?
映画「BISHU~世界でいちばん優しい服~」に思う
今回取り上げるのは「BISHU~世界でいちばん優しい服~」(https://bishu-movie.com/)という発達障害をテーマにした映画です。愛知県にある世界三大毛織物の産地の尾州地域が舞台で、メインキャストは、織物工場を営む父(吉田栄作)、ファッションデザイナーの長女(岡崎紗絵)、主人公で発達障害の高校生の次女(服部樹咲)の家族です。この発達障害の史織が、地域のファッションショーに出品する決断をしてから、家族や友人を含め、発達障害にどう向き合っていくのかが描かれています。 ぜひ作品をご覧いただいた上で、この記事を検証していただきたいのですが、「BISHU」を鑑賞した私は三つのポイントが気になりました。 ① 発達障害の史織(服部樹咲)が特性のある演技を細部にわたって表現していたが、どんな意味づけをしていたのか? ② 高校生の史織の朝食である「素うどん」を毎朝作るなど、父親(吉田栄作)は「過保護」なのか? ③ 史織の親友(長澤樹)と、史織の叔母(清水美砂)が、現実社会のダイバーシティに望まれる存在ではないのか? そこで、先日私は「インクルボックス」の取材で、監督の西川達郎さんに動画インタビューし、「BISHU」における発達障害の表現についてディスカッションさせていただきました。
監督「感動ポルノにしたくなかった」に共感
① 発達障害の史織(服部樹咲)が特性のある演技を細部にわたって表現していたが、どんな意味づけをしていたのか? 発達障害の保護者の方など、身近に発達障害の当事者がいれば、作中の細部にちりばめられている「史織の発達特性」が見えるはずです。「あぁ、あれはそういう意味か」と作品の深みが増します。ストーリーのベースを端的にいうと「障害者が頑張る話」になるのですが、西川監督は映画という2時間のエンタメの中で、「発達障害の生きづらさを伝えたい」+「発達障害に関心のない人に観てもらいたい」を両立する、映像作品の宿命であるジレンマも抱えていました。 そして何より共感したのが、「感動ポルノにはしたくなかった」という西川監督のコメントです。 「感動ポルノ(Inspiration porn)」とは、2012年に障害者の人権アクティビストで障害当事者でもあるステラ・ヤング(Stella Young)が初めて使用したとされる言葉です。その意味は、性的興奮ではなく、感動をかきたてるためだけに過剰に障害者を利用した作品と言われます。「感動ポルノ」は「私たちが常識的に抱いている障害への表層的な『思い込み』『決めつけ』をベースに作られていて、障害者理解を豊かにすることのない粗末で粗雑な文化的創造」(好井裕明著「『感動ポルノ』と向き合う」岩波書店より引用)という厳しい意見もあります。 障害理解には「存在を知る」→「関心を持つ」→「障害を理解する」のフェーズがあり、無関心な視聴者を振り向かせるには膨大なエネルギーが必要です。映像表現の世界でそれをブーストさせる手段のひとつに「感動」があります。 ただ「感動」といううま味調味料を過剰に含んでしまうと、私を含め障害の当事者家族や身近な人間からの共感が得られにくく「結局は感動ポルノか」と引いてしまうケースがあります。