沖縄復帰50年 「沖縄旅行にパスポート」「相次ぐアメリカ兵の事件・事故」驚く若者へ伝えたいこと
アメリカ兵による事件や事故 怒りが噴出した“コザ暴動”
しかし基地の街・コザでも、アメリカ統治に対する不満が溜まり続けていた。 復帰前の沖縄では、アメリカ軍関係者による刑事事件が年間1000件以上起きていた。酒を飲んだアメリカ兵の車に女性がひかれて亡くなったり、アメリカ軍のトラックに子どもがはねられて亡くなったりする事故も起きていた。それでもアメリカ統治下の沖縄では、事故や罪を犯したアメリカ兵を自ら裁く権利さえ認められていなかった。 そして1970年12月、アメリカ兵の運転する車が沖縄の住民をはねる事故が発生。抗議する市民に対して、アメリカ軍の憲兵が威嚇発砲した。これをきっかけに沖縄の人たちがアメリカ軍関係者の車などを襲い、80台以上を炎上させた、いわゆる“コザ暴動”が起きた。
宮永さんは、ライブハウスからの帰り道に“コザ暴動”を目撃した。 「先輩の親父が、アメリカ兵同士のけんかの仲裁に入って殺されたということもあったんですよ。レイプされた人たちもたくさん知っています。そういったことがどんどん積もり積もってくると、やっぱり『このぉ』って思いますよ。沖縄に土足で上がりこんできて、やりたい放題は絶対許さないぞって。でも、この暴動では、死者は出なかったし、略奪などもなかった。兵隊個人にではなくて、体制に対する怒りだったんです」 はるなさん(18・沖縄)は、「沖縄に住んでいても、こういう話ってなかなか聞く機会がなかった」と驚いた。
不本意な形での“本土復帰” 怒りと苦悩
そして迎えた1972年5月15日、本土復帰の日。沖縄代表として日米両政府に復帰を訴え続けてきた屋良朝苗知事が、復帰記念式典の壇上に立った。このときのスピーチは、沖縄の人の思いを代弁したと、いまも語り継がれている。
「沖縄復帰の日は、疑いもなくここに到来いたしました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして、復帰の内容を見ますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えないことも事実であります」 沖縄県民の多くは、本土復帰によって基地負担が軽くなることを望んでいた。しかし、多くのアメリカ軍基地が残されたまま復帰を迎えた。復帰式典が行われていた那覇市民会館の外では、土砂降りの雨の中、約1万人が抗議の声を上げていた。