沖縄復帰50年 「沖縄旅行にパスポート」「相次ぐアメリカ兵の事件・事故」驚く若者へ伝えたいこと
品物が水浸しになる市場 本土復帰を熱望した沖縄県民
市場周辺は、たびたび水害に襲われた。台風のあとはバーゲンセールをして、一度水浸しになった商品を売ることもあったという。 「なんで水害が起きる場所に市場をつくったんですか?」 若者の疑問は、沖縄の人たちが本土復帰を望んだ理由につながる。 戦後、焼け野原になった那覇は、アメリカ軍に占領された。最初に開放されたのは、戦前には人があまり立ち入らなかった湿地帯だったと崎山さんは話す。 「沖縄の人々の生活のインフラは後回しだったんですよね。台風になると浸水が起きて、総動員で店の品物を高いところに上げていました。そういった状況が本土復帰によって変わるのではないかと期待していたんです。復帰に向けて気分が高揚したのを覚えています」
本土復帰の2年前、1970年にNHKが沖縄で行った世論調査では、実に85%の人が本土復帰を「歓迎する」と答えている。
「どこが祖国なの?」復帰を喜べない人も
本土復帰に向けて、沖縄が一枚岩だったわけではない。 極東最大のアメリカ空軍基地・嘉手納基地がすぐそばにあるコザ(現在の沖縄市)は、ベトナム戦争に向かうアメリカ兵たちでにぎわい、彼らが使うお金で生活する人が数多くいた。ネオン輝くコザの繁華街では、一晩で当時の沖縄の人たちの年収の2倍も売り上げてしまうステーキ屋や、国籍を超えた恋模様を伝える翻訳屋などがあった。
基地の街・コザで生まれた宮永英一さん(70)は、コザのクラブでアメリカ兵相手に連日ライブを行っていた。 「アメリカ兵は本国では本物を見ているし、ライブハウスに来る人たちっていうのは、みんな音楽をかじっているんですよ。だから、中途半端な演奏はすぐバレちゃう。すぐ瓶や灰皿が飛んできましたね」 毎晩のように“命がけ”でライブを行っていた宮永さん。当時、本土復帰についてどう考えていたのか。 「コザや基地の周りで商売している人たちは、賛成の人は、ほとんどいなかったですね。基地が縮小して客が来なくなればみんな仕事を失うっていうことですから」 さらに宮永さんは、「祖国」とされる日本そのものに対しても、複雑な思いを抱えていた。 「うちの親父はアメリカ空軍の兵士で、すぐ朝鮮戦争に行って、そのまま本国に帰ってしまったので、僕は、あちこちに転々と預けられて育ちました。最後に僕を預かってくれたのが、沖縄のおばあちゃん。日本語ができず琉球語を使う彼女は戦時中、日本兵からスパイ扱いをされたわけです。太平洋戦争は沖縄が起こした戦争じゃないはず。それなのに沖縄に多くの犠牲が出た。それで『どこが祖国なの?』という疑問がやっぱり湧いてくるんですよ。だから素直に喜べないような気持ちはありましたね」