「あいつも喜んでいるさ」なぜ人間は故人をさも生きているように語る?宗教学者が葬式をする唯一の動物<ホモ・サピエンス>のナゾに迫る
◆死体への対処と霊魂観念の儀式である「葬式」 高度に発達したホモ・サピエンスの脳は、たとえ原始人でも、人が死んだという不可逆的な生理的事実はしっかり認知できる(人間以外の動物には仲間の死の認識はないとされる)。 しかし脳で働いている別の(指向的構えをもつ)認知プログラムは、頭のどこかで、故人を生きているかのように扱っている。 つまり、脳はつねに他者の意図を読みつつ働いているので、その思考の習慣内に位置づけられていたキャラクターの一人が現実には消えてしまったとしても、そう簡単には思考習慣は更新されないのである。 むしろ故人の記憶は愛着となって消去に抵抗するだろう。さて、原初の時代の人類は、このことに大いに困惑を感じたのではあるまいか。 死体がそこに置かれたままの原始の状況では、(病気の潜在的源泉である)死体に対する生理的な嫌悪のメカニズムもまた強力に働くから、故人への思慕と死体への嫌悪との板挟みの感情は耐えがたいものになっただろう。 この状況を切り抜けるために、人間は、一方では死体を処分する(遠ざける、埋める、焼く)という合理的行動をとりつつ、他方では指向的構えがもたらす「あいつはまだ生きている」という存在感の意識に見合った仮想のキャラクター、「霊魂」を共同体のみなで作り上げる手の込んだ儀礼を行なうようになった そんなふうに推定することが可能だ。 死体への対処と霊魂観念の立ち上げのための共同の儀式が、いわゆる葬式である。
◆来世観よりも切実な葬送の儀礼 ボイヤーは言う。哲学者や人類学者は、人間はみな根っからの《二元論者》であるために、身体の崩壊後の霊魂の行方のことで悩むのだ、と考えがちである。 しかし、実際に悩ましいものとなっているのは、もっと具体的なことである。物理的死も認め、意識の存続も感じてしまうという認知上の矛盾をめぐる葛藤こそが、人類を悩ませてきたのだ。 だからこそ、どんな社会でも、葬式は一般に死後世界を描くようなものではなく、死体とのお別れの複雑な手続きとなっているのである。 死体を丁寧に処置し、<精神は今や霊魂になったという約束を共有する>そういう移行の手続きなのだ。 重視されているのは来世観ではなく死体をめぐる儀礼だ、というこの見方は、日本人の来世観のことを考えると、確かに納得がいく。 日本人の来世観は、神道やら仏教やら道教やら儒教やら民間信仰やらが織り交ざって、黄泉(よみ)、常世(とこよ)、六道(ろくどう)輪廻、極楽浄土、幽冥界、村の裏山の先祖の世界……とさまざまに語られてきた。 要するに霊魂がどこへ行くのか分からない。矛盾だらけだが、誰もあまり気にしていない。 その一方で、葬儀は手の込んだものへと発達を遂げてきた。なるほど、大事なのは死者を送り出したり思い出したりする儀礼、葬式や法事であり、死者が今どういう場所にいて何を やっているかではないのだ。 実は、一見来世観がはっきりしているかに見えるキリスト教世界においても、実際にはさまざまな説が矛盾したままに語られてきたのである。 ※本稿は『死とは何か-宗教が挑んできた人生最後の謎』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
中村圭志
【関連記事】
- 死後も人の魂は残る?死は人生の総決算?科学、哲学、宗教でどう捉えられてきたかというと…宗教学者が説く<教養としての死生観>
- 「終活」という言葉の誕生は2009年。それ以前に『遺言ノート』や葬儀の多様化も。『婦人公論』誌上に見る女性の「終活」事情
- 養老孟司×小堀鴎一郎「生かす医療」から「死なせる医療」への転換をどう見極めるか?86歳・現役の2人が<高齢者の終末期医療>を考える
- 難病の子が命ある限り、子どもらしく生きることをサポートする「こどもホスピス」。夫のがん終末期の苦しみを間近で見て、子どもならどんなに辛いだろうと~『最後の花火』【東えりかが読む】
- 3000人以上の最期と向き合った緩和医療医が明かす、多くの患者が後悔したことは?「思い残すことはない」と言い切った患者の共通点は<準備>を進めていたこと